三成派(1049票) 家康派(535票) |
1位 大谷吉継(175票) 2位 島津義弘(113票) 3位 真田幸村(102票) 4位 島左近(92票) 5位 小早川秀秋(82票) |
三成派 石田三成は家康なんかよりよっぽど戦上手で、英雄と呼ばれるにふさわしい人間に違いない!なぜなら西軍で戦ったのは、大谷軍、宇喜多軍、小西軍、石田軍ぐらいで、それに倍以上の東軍が攻撃してきたにもかかわらず、石田軍は彼らを長い間撃退し続け合戦を有利に運び続けた。また陣のしき方を見ても、三成は家康を包囲する陣形を取ったのに対し、家康はそれに包囲されるような陣形を取った!彼は三成よりも合戦に多くでて、“街道一の弓取り”とか呼ばれてんだからきっと他のいい陣の取り方をいくらでも知ってたはずだ!また一説に寄れば家康は秀頼を味方につけていたとか、それなら三成は勝っても逆臣、負けても逆臣。こんな立場に置かれながらもたった一人で家康に立ち向かい、真に豊臣を想い、守ろうとした三成こそ真の英雄に違いない!
小早川秀秋 ひょっとしたら、こいつが動かなければ三成が勝ったんじゃないのか。家康はこいつの裏切りが無ければ敗走に追い込まれたんじゃないんだろうか?そう考えると家康は決して“街道一の弓取り”ではなく、部下の助けと運良く生き残ってきた狸親父にしかすぎない。残るのは汚さと民政だけでコイツは戦上手でもなんでも無い、運良く天下を取った、ただの狸親父にすぎないだろう。
家康派 たぬきオヤジは嫌いだけど、ハゲオヤジも嫌い。福島正則がちゅきっ♪だからってことで。
京極高次 何故西軍の軍勢を相手に戦って、何日も持ちこたえることが出来たのか疑問に思ってるから!
三成派 三成様は根も優しいし、とっても忠実だし、この時代にしては珍しく(?)偉くなりたい願望強くないし。逆に家康は、天下人になるためなら、なんでもするみたいな…?結局、色々あった関ヶ原だけど…裏切られたり、計られたりで、三成公は可哀相スギ!!家康はズル賢くて、私は好かぬ。
大谷吉継 三成様の親友だから♪♪お茶のお話は感激デス!!
家康派 徳川家には全く興味がありません!むしろ三成の方に好感を抱いております!しかし黒田殿が東軍におるというのなら黒田殿に従い東軍につき申す!
黒田孝高 まさか天か分け目の決戦があんなに早く終わるとは思っても見なかったでしょう。もし戦いが長引いていたなら、必ずや如水様が天下を取られた事でしょう!吉川、小早川の両名は余計な事をしてくれたものだ!そしてせがれの長政も家康を左手で刺し殺せば良かったのだ!
家康派 某、筑前福岡52万石黒田家の末裔でござる。 徳川軍に属した黒田長政公を応援します! 吉川を参加させず、小早川を寝返らせた功績で、豊前中津からご加増でござる。 お家安泰!
黒田孝高 徳川軍と言っても、言ってみれば第三勢力の黒田軍。 九州・中国の兵を引連れ、上方へ上れば、徳川軍などひとひねり・・・と行きたいところだったが。 無念でござる。 しかし、そうなると歴史が変わってしまう・・・。
三成派 徳川家康は自分が天下を取るために戦ったが、石田三成は自分ではなく、豊臣秀吉の遺児の豊臣秀頼の天下にするため各国の武将に戦って欲しいと頼んだ石田三成が正しい!!!
島左近 あれだけの知略があるのならなぜ卑怯な徳川家康に勝てない?????
三成派 家康も三成もともに豊臣家のためと言っているが、家康はまったくそう思わない。逆に三成は本気で豊臣家の安泰を願っている気がするから。
小早川秀秋 結局東軍が勝ったのは小早川の裏切りが最大の要因だと思う。
家康派 あいかわらずワシって人気ないのう。くり-んでわかりやすう〜い政治が人気の秘訣かのう・・・で戦国がおさまるかっつ-の!
真田幸村 いいねぇ。目立ってたねぇ。名を残したねぇ。
三成派 江戸幕府のせいで、日本の発展が270年も遅れてしまったから。三成だったら、もっと日本をスゴイ発展へ導いたかもしれないから。
吉川広家 この大切な戦いで、日本の未来も考えずおのれの保身のために仲間を売るとは、とんでもない奴だ!小人の集まりでできた東軍に、偉人の集まりの西軍(一部を除いて)が破れてしまったのは悲劇としか言いようが無いだろう。
三成派 治部殿は、正義のために挙兵したのじゃ。義を重んじるそれがしは、三成派につきますぞ。
佐竹義宣 家康に一番近い大名で、よく西軍についた。
家康派 家康というか・・・家康の影武者派!家康はふたり存在した。本物の家康は関が原の戦前半で三成側の忍びにより討ち死にに・・・いつまでも行動を起こさない小早川に弾を撃ったのは影武者。関が原の戦いに勝ったのは影のおかげ。家康には将器があった。しかし心の中はあまり美しいものではなかった。それにひきかえ影武者の家康が考えをしながらも善の自分の心も加えた戦であった。家康は天下は徳川のものにするつもりだっが、影は豊臣に返すつもりだった。ただそうなれば自分の命があぶないと思い建てたのが駿府城である。息子に天下を譲って見張るために。だが極悪人な息子のせいで結局天下は徳川のまま・・・そして影も遂に毒を盛られ死す。影の名は・・・
本多忠勝 彼は家康が先に死んだことを知っていたのだ。
家康派 歴史に『もし…』は、禁物ですけど、伊達・上杉連合が、関々原に駆けつけていたら…。無用な戦いを避けるため、駿河・遠江を避けるでしょうから、真田親子vs徳川秀忠と遭遇し、一昼夜待たずに秀忠敗走。この一報が伝わると、内応していた、小早川・吉川が三成に加勢し、家康敗戦…。になるはずなのに、なぜ、伊達・上杉は動かなかったのか?世論が、次のニューリーダーを探していたからじゃないでしょうか?。秀吉を担ぎ続ける三成に世論は、NOという答えを出し、見渡した所、家康がいたのでしょうね。
福島正則 家康も、世論の意見に十分すぎるほど、答えた。有名な小山評定や、1600年7月〜9月に、108の外様大名に180通の手紙を書くなど、根回しも忘れていないし、59歳の老齢にも関わらず合戦に自ら参加している所など、世論が求めていたニューリーダーに相応しい人物像を作りあげている。大阪冬の陣・夏の陣でも、次のリーダーには、秀忠と世間にアピールしている。兵力・戦略・戦法云々を考える前に世論を味方にした家康の頭脳勝利だったんでしょうね。