写真:岡 泰行
「安芸高田市歴史民俗博物館」へどうぞ。また、吉田郡山城全域模型が、広島城の二の丸多聞櫓内にある。
住所:広島県安芸高田市吉田町吉田 [MAP] 県別一覧[広島県]
広島バスセンターからバス約1時間30分、「安芸高田市役所前」降車、徒歩5分。
中国自動車道、高田ICから約15分。
ずいぶん前、『大河』でしょうもない毛利元就をやってたの頃に行った。元就の墓、三矢の訓えなど石碑がほとんどで、日が暮れていたので少し観て帰った。山頂まで行かなかった。鎌倉時代の築城。元就が拡張、山全体を城塞化しているらしい。100万石以上の大国の城下町としての発展が、見込めないこともあってか移転、廃城。しばらくは、石垣くらいは残っていたらしかったが、徳川幕府によってすべて撤去させられたとのこと。
( 長篠村田吾作の弟)さんより
吉田郡山城の見どころは、本丸などと各郭を結ぶ通路綱や元就ら歴代墓所。
( 篠田諒平)さんより
城は江の川と多冶比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。毛利氏が吉田荘の地頭職として下向した建武3年「1336」に毛利時親が郡山南東の一支尾根に築城した。「本城」といい、以来、十二代目にあたる元就の相読間ではこの本城がその居城であった。のち天文二十年「一五五一」頃までには元就がを城を全山に拡大、隆元・輝元と相読され、天正十九年「一五九一」に広島城を築城して移るまでの毛利氏本拠城である。天文九年から十年「一五四〇から一五四一」尼子氏の大軍が郡山城を包囲した郡山合戦は毛利氏の勝利に終わるが、この時は本城を城域とした合戦と見られている。郡山合戦以降に毛利氏が国人領主から戦国大名へ成長していく過程の中で、郡山城軍事的施設であるとともに、政治中枢機能をはたす城として拡大・発展していったといえよう。城の遺構は、山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小二七〇以上の郭が見られ、一部は堀切り等によって区画する。山頂部は本丸で、一段下がり二の丸、さらに三の丸に続く。三の丸は城内最大規模の郭で、虎口郭的なあり方を示している。また本丸から三の丸にかけての郭斜面が繊w@w告ホ垣であったと見られることや瓦葺き建物の存在が推定されることなど、天正年間以降の改修示す遺構を留めている。廃城は関ヶ原合戦後と見られ、寛永十四年「一六三七」島原の乱後に石垣、堀などが破却されたといわれる 。
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( 長篠村田吾作の弟)さんより
吉田郡山城の見どころは、本丸などと各郭を結ぶ通路綱や元就ら歴代墓所。
( 篠田諒平)さんより
城は江の川と多冶比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。毛利氏が吉田荘の地頭職として下向した建武3年「1336」に毛利時親が郡山南東の一支尾根に築城した。「本城」といい、以来、十二代目にあたる元就の相読間ではこの本城がその居城であった。のち天文二十年「一五五一」頃までには元就がを城を全山に拡大、隆元・輝元と相読され、天正十九年「一五九一」に広島城を築城して移るまでの毛利氏本拠城である。天文九年から十年「一五四〇から一五四一」尼子氏の大軍が郡山城を包囲した郡山合戦は毛利氏の勝利に終わるが、この時は本城を城域とした合戦と見られている。郡山合戦以降に毛利氏が国人領主から戦国大名へ成長していく過程の中で、郡山城軍事的施設であるとともに、政治中枢機能をはたす城として拡大・発展していったといえよう。城の遺構は、山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小二七〇以上の郭が見られ、一部は堀切り等によって区画する。山頂部は本丸で、一段下がり二の丸、さらに三の丸に続く。三の丸は城内最大規模の郭で、虎口郭的なあり方を示している。また本丸から三の丸にかけての郭斜面が繊w@w告ホ垣であったと見られることや瓦葺き建物の存在が推定されることなど、天正年間以降の改修示す遺構を留めている。廃城は関ヶ原合戦後と見られ、寛永十四年「一六三七」島原の乱後に石垣、堀などが破却されたといわれる 。
( 篠田諒平)さんより