写真:岡 泰行
福山城の歴史と見どころ
福山城(ふくやまじょう)は、元和8年(1622)に水野勝成によって築かれ、その後水野家や松平家、阿部家などに受け継がれ、幕末まで福山藩の政治の中心となった。明治6年に廃城となり、ほとんどの建物が取り壊されたが、天守や伏見櫓、筋鉄御門など一部の建物が残された。昭和20年(1945)、福山空襲で天守や御湯殿が焼失したが、昭和41年(1966)、復興整備で天守が再建され、福山市のシンボルとして親しまれている。
福山城の歴史
広島県の東の玄関口、福山市。福山城は、常興寺山を城地とし、城と城下町を含めた都市計画をもとに築かれる。8万坪の敷地に五層五階地下一階の天守をはじめ7つの三重櫓、14の二重櫓を配し、二重の堀を廻らせた近世城郭で、元和6年(1620)から約3年がかりで完成をみた。天守曲輪が本丸の北寄りにあり防御が手薄なため、天守北面の壁一面に鉄板が張られ、北側からは黒く見えたという。
築いたのは、福島正則の改易後に大和郡山から入封した水野勝成(みずのかつなり)。徳川家康の従兄弟にあたる譜代大名で、猛将としても知られる武将だ。この地に10万石の身代としては規模の大きい城が築かれたのは、西国雄藩の中に幕府が打ち込んだ楔(くさび)の意味合いもあった。武家諸法度により新たな城造りが制限されている中、幕府はいわゆる「天下普請」に準ずるものとして築城を許可したと言われている。水野氏5代のあとは、松平忠雅を挟み、後に老中首座として日米和親条約を締結することになる阿部正弘を輩出する阿部氏が10代続き、明治を迎えた。
廃城令後も、建物の一部は高額な取り壊し費用のため引き取り手が現れず、伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)、鐘櫓が現在も残っている。天守は、昭和20年(1945)8月8日の空襲により焼失。昭和41年(1966)、福山市制50周年を記念して月見櫓、湯殿とともに外観復元された。平成に入り、福山駅前広場の整備工事に伴う発掘調査が行われ、二重櫓、舟入、御水門などの遺構が発見され、その石垣の一部は広場内に復元展示されている。そのほか主に北側に外堀の痕跡が残り、往時の城域を偲ぶことができる。
令和4年(2022)8月、築城400年を記念し「令和の大普請」の整備事業が行われ、天守最上階の窓の変更や北面の鉄板張りなど外観が復された。鉄板張りは大砲への防備のために施されていたもので、今回の改修工事では、JFEスチール(株)からの寄贈で厚さ約0.6mmの鉄板2000枚が1階から4階の壁面に張られた。そのほか、天守内の展示リニューアル、ライトアップが照明デザイナーの石井幹子さんのデザインにより刷新されている。
福山城の特徴と構造
福山城は平山城で、二の丸、本丸の石垣が残り、建築物では伏見櫓や筋鉄御門が現存、修復された鐘櫓、再建された天守、御湯殿や月見櫓がある。
天守
天守は五層五階地下一階で、二層三階の附櫓を持つ複合天守だ。かつては畳敷きで天井や床の間も設けられるなど軍事的な要素だけではない部屋があった。天守は戦後に再建され、令和4年(2022)8月、外観復元整備が行われ天守北面は鉄板張りとなった。
伏見櫓
伏見城から移築された国の重要文化財の伏見櫓。解体修理時に「松の丸東やぐら」と刻まれた材が見つかり明らかになった。豊臣期のものではなく、徳川期の伏見城のものと考えられている。石垣上に石落としが無く、二層の入母屋に正方形に近い最上階を乗せたかたちとなっている。特に長押や柱が表面に表れている真壁造(しんかべづくり)が美しい。国の重要文化財に指定されている。
筋鉄御門
筋鉄御門も伏見城からの移築と伝わるが確証を得ていない。本丸の正面に据えられた門で、かつては渡櫓と多聞櫓と連結していた。柱や梁には固い欅(けやき)が使用された。門扉に鉄板を打ち付けていることから、その名が付いた。国の重要文化財に指定されている。
御湯殿
御湯殿は、藩主が使用するための風呂場で、明治6年(1873)に民間に払い下げられた伏見御殿だが、この時、残ったのが御湯殿だ。惜しくも福山空襲で焼失するが昭和41年(1966)に木造外観復元された。
鐘櫓
築城当時から本丸跡に残る鐘櫓。二層櫓で上層に梵鐘を吊し江戸時代には時を告げていた。緊急時に城下の武士を招集する太鼓もあったと伝わる。本来の屋根は檜皮葺きかこけら葺きだが、昭和の修理時に板葺きに変更されている。写真手前のスペースはもとは虎口だが石垣で塞がれ使用されていない。
町中に残る福山城の痕跡
福山城は外郭の痕跡が随所に残されている。物見櫓石垣、東外堀石垣、舟入・二重櫓台、三之丸西御門櫓台などの石垣のほか、城の北側には、福山八幡宮付近に外堀の役目を果たした吉津川の高低差や惣門跡、實相寺に移築された東外堀石垣と旧神辺城惣門がある。福山を散策してみると、その城域が体感できる。建築遺構は、福山藩の藩校、福山誠之館の玄関部と後に造築された主屋が福山誠之館高等学校記念館として、広島県立東高等学校に移築現存している。そのほか、福山城初代藩主、水野家の墓所が若松町の賢忠寺にある(取材に際して福山在住のMさんにお世話になりました。記して御礼申し上げます)。
福山城ライトアップ
福山城のライトアップが二之丸東側の石垣(延長約125m)のライトアップを含み、2023年1月31日から新しくなった。照明デザインは、ライトアップの第一人者といわれ、東京タワーや横浜ベイブリッジ、明石海峡大橋などのライトアップを手がけた、石井幹子さんによるものだ。城では、大阪城、姫路城、信州上田城の夜桜、ここ福山城のライトアップをてがけている。
福山城の撮影方法
福山城は駅前城郭だ。新幹線の福山駅上りホームから狙う福山城は写真的に訪れるべき必須ポイントだ。駅ホーム東よりでカメラを構えれば、月見櫓を眼前に。西よりに陣取れば、伏見櫓を眼前に捉えることができる。窓も開くので、くすみのない写真が撮れる。駅の入場券を購入して是非、訪れてほしい。または、駅南側の高層ビル「福山ニューキャッスルホテル」からどうぞ。また、ライトアップは日暮れ~午後10時まで。
福山城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る福山城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。福山城の関連史跡
福山まで来れば、是非とも足を向けてほしい場所がある。南へ車で30分の距離にある「鞆の浦」だ。風情のある町並みと、福山城の移築長屋門、山中鹿之助の首塚、鞆城、伏見城から移築された沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)能舞台、加藤清正の木像のある法宣寺、足利義昭が毛利氏に身を寄せた小松寺、坂本龍馬の隠れ部屋である桝屋清右衛門宅、いろは丸展示館、いろは丸事件談判跡など、実に丸1日は散策して愉しめる港町だ。
福山城のおすすめ旅グルメ
「魚鮮」が値段も手頃で旬の魚を出す店。地元で評判。伏見町にあり福山駅から東へ徒歩2分。または、ちょっとリッチに「海彦太郎」。こちらも新鮮な魚介類が豊富。延広町にあり福山駅から南へ徒歩10分。
福山城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
2002年3月オープンの「ベッセルイン福山駅北口」が値段も手頃で城からもっとも近い(城の東側に隣接)。窓から天守がよく見える。または、ちょっとリッチに「福山ニューキャッスルホテル」。城の南側にあり、天守、月見櫓、伏見櫓を含めた曲輪が良く見渡せる絶景ホテルだ(写真)。客室は4~15階で、15階の東から1〜4号室がツイン、5〜8号室だダブルとなっている。天守正面に最も近い部屋は1501号のツイン。少し斜めから撮りたい場合は1505号室あたりが良い。普段見られない広大な城景を堪能できる。福山ニューキャッスルホテルは、とにかく親切で、詳しくここで書くことはできないが、カメラマンにとっても全国屈指のホスピタリティを誇る一押しの宿。
福山城のアクセス・所在地
所在地
住所:広島県福山市丸之内1-8 [MAP] 県別一覧[広島県]
電話:084-922-2117(福山城博物館)
開館時間
福山城天守閣は、AM9:00~PM4:30(10月~3月はPM4:00)、月曜休館。天守閣以外は入城自由。
アクセス
鉄道利用
JR山陽本線、福山駅下車、北口から徒歩5分。
マイカー利用
無料駐車場有り。または、ふくやま美術館駐車場を利用すると良い。
JRの駅から一番近くに見えるお城です(福山駅が城の内堀を埋めて作ったので)。福山を電車で通った方なら分かりますが、駅からこんなに近く城が見えるとたいていの方は感動されます。白亜の5重の天守閣は福山のシンボルです。
( 武田屋)さんより
大坂夏の陣後、元和5年(1619)徳川家康の従兄弟水野勝成が備後10万石の領主に転封初めは神辺城に入ったが、土地が偏りすぎてると言う理由で、1国1城令があったものの幕府の援助の元、芦田川河口の常興寺山に新城を建設。伏見城の遺構等を使うなどして元和8年(1622)に完成。別名葦陽城。久松城。
( 武田屋)さんより
伏見城の遺構と伝えられる伏見櫓、筋鉄御門が現存しています。天守閣は5層6階で郷土博物館となっています。
( 又兵衛)さんより
福山城の近くに住んでます。いつも午後10時までライトアップされて奇麗です。うちの家も元々、城内です。ただ、夜お城に行くとホモの人が多いです。注意!あと街灯も少ないです。行くならやはり昼でしょう。春は桜の名所です。
( JOHN)さんより
「兎耳兜」があります。文字通り、兜にかわいらしく兎の耳がついています。「眉毛をつけて、りりしくしてみました」というような主旨の説明文がついていましたが、いまさら何を…、という面白い兜です。一見の価値あり。その他、因島の水軍城の「ほたて貝兜」や、岩国の「鯰形兜」もなかなかです。詳しくは「はじめてのひとり旅−瀬戸内海ラブ・スト−リ−」(新風舎)というエッセイに書きました。岩国・尾道・福山の市立図書館に寄贈しましたので、ご覧下され。
( Sakurako)さんより
元和年間に福島正則に代わって備後南部の領主となった水野勝成によって築城されました。「元和堰武」の風潮のもと、西面を鉄板で覆い、西国における戦乱を食い止める意気込みを示すなど、譜代大名である水野氏の意気込みを示す城でした。 水野氏が五代のときに転封されたのち、松平・阿部を通じ幕府の中国地方における要として機能し、戊辰戦争時には広島藩と干戈を交えたことがあったそうです。 明治以後、福山は地域の代表都市となり、福山城もそのシンボルとしてそびえていましたが、太平洋戦争末期の1945年8月8日、福山空襲によって焼失し、以後再建されるまで城址はそのままにされました。
( 大津冬久)さんより
福山城天守閣は昭和40年代の再建ですが、内部が市立の博物館になっています。また、福山駅の北側にあるので新幹線の車窓やホームから全体像を確認できます。本丸の御殿跡付近は桜が多く、花見の名所として有名です。また、周辺には福山歴史博物館、ふくやま美術館や福山自動車博物館(展示物に触れられるなどかなり先進的な博物館です)があります。詳しくは地図で確認してください。
( 大津冬久)さんより
最代の殿様は、徳川家康の親戚の水野勝成だつた。二代目が、あの有名の阿部正弘だつた。
( 藤本智久)さんより
あまり知られていませんが、城内に伏見櫓の奥に市文化財の鐘楼櫓が現存しています。この櫓は後世の変容がだいぶ加わっていましたが、昭和54年に旧態に復され、現在も太陽電池で鐘が鳴っているとのことです。
( 氏綱)さんより
2022年12月2日から2023年1月29日までは、ライトアップイベント『チームラボ福山城光の祭』が行われていた。この夜のイベントのためのオブジエやライトアップ装置が本丸などの曲輪を占有していて、これが昼間の登城者のことが考えれていない配置で驚いた。素直に正面から天守を撮ることもできない配置だ。文化目的で昼間に登城した人は、カメラを持っている筆者に話しかけてくるシーンが多く、遠くまで来たのにと誰もががっかりしていた。オブジエの配置から感じるのは、イベントをデザインした人が福山城を舞台に、夜の光の祭のためだけに配置したといった具合で、昼間に文化を愉しむ人をターゲットから除外しているように感じた。そのため城としての風景は台無しで期間中は訪れるべきではない。運営側はターゲットをしっかり分けて考えてほしい。
福山城はイベントスペースがあまり無く、本丸を活用していくしかないのが苦しいところだ。本丸にはその大半を埋め尽くすかたちでオブジエが置かれ、本丸南側、東側の帯曲輪にはライト装置、また、リニューアルした鉄板張りの天守北側には、天守の礎石展示があるが、その礎石の上に、城の世界観にそぐわないオブジエが置かれていた。福山城を城という文化面を見にきた人にとって、肝心の礎石が見られず、また、天守と礎石を写真に収めるためにそのオブジエが写り込んでしまう。また、その準備は12月上旬からの祭のために11月10日からオブジエの設置が行われいる。ライトアップも準備中は行われない。要するに光の祭りのために約1ヶ月間、歴史旅の満足度はかなり低い城となっている。2022年は福山城がリニューアルした年だ。その最初の紅葉シーズンに城本来の姿が捉えられない。コロナも落ち着きを見せ始めたこの秋に城を訪れる文化系の旅人は多い。11月以降期間中はSNS等でシェアされる福山城のベーシックな写真は減るだろう。
もちろん光の祭典に興味があり、夜の登城が目的であれば、なんら問題なく愉しめるのだが、昼間では意味をなさないオブジエの配置に、運営側のターゲット意識が気薄なことが見てとれてとにかく残念だ。宣伝面のリーチを考えるならば、オブジエの配置を工夫して本来は両方を満たす意識を持ってほしい。
( shirofan)さんより
福山駅の新幹線ホームでは窓が開くので、写真を撮るなら絶対窓を開けるのがおすすめです。施設内も戦国好きから幕末好きまで楽しめます。ショップもなかなか商品が多いですが、福山城のキーホルダーがないのがちょっと残念かなと。施設外にありますが少し見えにくいので。
( 真田は神)さんより
『写真でみる福山城』(東京堂出版)は、戦前の焼失前の天守の写真やその内部の写真が豊富に掲載されていた。また、現代地図と藩政時代の重ね合わせ図も掲載されている。堀の埋め立ての変遷なども紹介されており、現在の町割りにその痕跡を見ることができる。
( 光秀)さんより