名古屋城
名古屋城が築城される80年ほど前、ここには今川氏が尾張攻略の拠点として建てた那古野城(柳の丸)があった。場所は現在の二之丸あたりだと推定されている。

天文期(1532年〜1555年)のはじめ頃、織田信秀が当時の城主、今川氏豊(義元弟)から奪い取り、1546(天文15)年頃に古渡城へ移るまで居城とした。信秀の嫡男、信長がここで誕生したとも言われている(最近は勝幡城生誕説が有力)。1555(弘治元)年、信長は居城を清須(清洲)城に移し、叔父の信光、重臣の林秀貞が城主となったが、やがて廃城となった。

那古野城

この地が再び歴史の表舞台に登場するのは、関ヶ原の戦い(1600年・慶長5年)の後のこと。若くして病没した清須城主、松平忠吉(徳川家康四男)に代わって、九男の徳川義直が入ったことにはじまる。このとき、清須は水害を受けやすいという上申があり、新たな城地としてかつての那古野城跡が選ばれたのだ。

家康は、加藤清正や福島正則、細川忠興など20家の外様大名を動員し、城づくりに当たらせた(天下普請)。未だ大坂城にいる豊臣秀頼に対し、にらみを利かす拠点のひとつとして築かれたものだ。外様大名に普請を任せたのも、彼らの経済力を削ぐためであったとも言われる。天守は作事奉行、小堀政一(遠州)と大工頭の中井藤右衛門正清が手がけた。1612(慶長17)年、金鯱をいただいた大天守、小天守が完成。1615(元和元)年には本丸御殿もできあがった。城下町には、清須の住民が半ば強制的に移住させられ(清須越し)、現在の名古屋市へとつながる町が形成された。

1752(宝暦2)年、時の藩主、徳川宗勝は天守の大規模な修理(宝暦の大改修)を行った。これは、経年変化によって傾いた天守を元通りにするため、天守台の石垣を積み直したほか、一部屋根瓦の銅瓦への葺き替えなど細かな改造も施されている。

明治を迎え、1872(明治5)年に東京鎮台第三分営(後の名古屋鎮台)がおかれ、本丸はその本部となった。この頃、二之丸御殿をはじめ二之丸や三之丸にあった多くの建物が破却されている。1879(明治12)年、陸軍省や内務省などが、姫路城とともに城の永久保存を決定。1893(明治26)年には、本丸および西之丸の東部が名古屋離宮となった。その後、1930(昭和5)年、当時の宮内省から名古屋市に下賜され、翌年から天守の一般公開も実施されている。

1932(昭和7)年、国の史跡に指定されたのを期に名古屋市は、国宝(当時)の建物24棟の実測調査を開始。1940(昭和15)年からは写真に残す作業も行われ、700枚以上のガラス乾板にその姿が保存された。

名古屋城本丸御殿

1945(昭和20)年5月14日の名古屋空襲により、名古屋城も天守や本丸御殿など多くの建物が焼失した。1955(昭和30)年、名古屋城再建準備委員会が結成され、1957(昭和32)年に天守再建工事着工。2年後に鉄筋コンクリートで外見復元された大天守・小天守・正門(榎多門)が完成した。2009(平成21)年からは実測図や写真を元に本丸御殿の復元計画がスタートし2018(平成30)年、全面公開が始まった。現在は、天守の木造復元が検討されている。

(文:mario 写真:岡 泰行)

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