写真:岡 泰行
加納城の歴史と見どころ
加納という地名の由来は、新たに開発され寄進された荘園に由来するのでさないかと思われるが定かでない。
岐阜城の麓、岐阜公園内の歴史博物館に、城全域の復元模型が展示されています。
[一鉄 (1998.10.23)]
加納城の関連史跡
ちょっと足を伸ばして、岐阜グランドホテルとか。
[近藤嗣治 (2011.03.27)]
加納天満宮・岐阜城・盛徳寺・光国寺・革手城(川手城)。革手城は、今は、女子高になっています。 JR岐阜駅・名鉄新岐阜駅下車、バス「下川手」または岐南町方面行き「加納付属小学校前」降車。また、加納天満宮のそばの盛徳寺・光国寺には、城主、奥平昌信夫婦の墓もあります。
[厚見朝臣義昌・半兵衛 (2005.1.23)]
[近藤嗣治 (2011.03.27)]
加納城のおすすめ旅グルメ
旧中仙道の加納本町2丁目の二文字屋は歴史あるお店です。ひつまぶしなどがあります。
[近藤嗣治 (2011.03.27)]
「お城」とはある意味で「非日常」なものですが、その日はボーイスカウトの皆さんの集合場所になっていて、たくさんの子どもであふれかえっていました。「おいおい君たちが走りまわっているのは、それ虎口だよ!」と言ってもわかってもらえるわけもなく(そりゃそうだ)、ただ春の日が過ぎていく、といった風情でした。この「お城」は「日常」に溶け込み、今を生きているんだなぁと感じました。
( せんべい)さんより
本丸の石垣、濠のあと、土塁、二の丸の石垣等が残っています。岐阜城の天守閣を二の丸櫓と移築した平城だったそうです。規模はあまり大きくなく、徳川家康が、娘婿のために造ったそうです。でも、内心は、織田氏の名残りを廃絶したかったのでしょう。本丸の石垣や土塁は結構綺麗に残っていますが、建築物は一切残っていません。
( 一鉄)さんより
岐阜城廃城後、その天守が隅櫓に使われたそうです。岐阜の城主になった人は必ず滅んでますよね、なんでもその原因が、天守にあるそうで、道三時代、築城時に城のヒミツを知っている大工を生き埋めにしたそうです。その大工が代々たたってやる〜と言い残したそうで、加納にうつされてからも、その軒下?をくぐった人は、なんらかの形で死ぬと言われていたそうです。この加納から岐阜城の復興天守が見えますが、なにやら変わった光景です。
( 半兵衛)さんより
本丸跡は元々は陸軍の連隊が使用していたが、その後、自衛隊の敷地となり、現在のように城跡公園となりました。隣接の気象台は二の丸跡(例の岐阜城の天守閣が隅櫓としてあった)、小学校には、遊び場と化した土塁があります。
( 稲葉白兎)さんより
隣を流れる川(荒田川?)が、加納城の東のはて。当時はいわゆる東の水堀だったわけです。川にかかった橋から城跡を眺めると、何となく城郭の面影がイメージできます。
( 稲葉白兎)さんより
関ヶ原の後、家康がじきじきに築城を命ぜられ、本多忠勝が指揮、岐阜城の天守(池田氏時代に建造された物)を二の丸に移した。しかし、後に享保13(1728)火事で焼失(時の城主老中安藤信友)。残念!初代城主は家康の娘亀姫(あの悲劇の武将信康の同母妹)の夫 奥平信昌、元長篠城城主である。妻亀姫は母に似て気性が激しかったようで、彼女の雷の犠牲になった侍女たちの墓が近くにある。
( 厚見朝臣義昌)さんより
見所は石垣ぐらいでしょうか。チャート製の石垣はそうないと思います。石垣は本丸・二の丸の一部(北辺・気象庁の南)三の丸の一部(稲荷神社があった。現在幼稚園と小学校の間にある。家紋が彫られた石があるらしい)のみ。現在気象庁のやぐらがあるところが岐阜城天守を移して御三階と呼ばれた二の丸隅櫓のあった場所です。城の北には亀姫に殺された侍女12人の墓(十二相神)があります。
( 厚見朝臣義昌)さんより
近くを散策してみると、外堀の水源になっていた荒田川が流れています。また、この加納という地名のあとには加納○○町という地名になっており20種類ほどは数えられます。特に加納西丸町や大手町などは城の一角であったことを思わせる地名になっておりますし、加納永井町や加納奥平町などは、知る人ぞ知る歴代の城主になった人の地名です。加納竜興町なんて地名もあります。地名だけを見ても面白いですよね。
( とおる)さんより
お城の跡は、石垣と土塁だけです。でも、付近には小、中学校、聾学校、幼稚園、測候所などの ほとんどが城跡だと思います。今思うと、とても広い敷地だったんだとちょっと感慨深い気持ちです。
( 近藤嗣治)さんより