写真:岡 泰行
引間城(曳馬城)の歴史と見どころ
浜松城の前身、引間城が元城東照宮付近にあった。住所は元城町といい、もともと城があったことを意味している。引間城は今川氏の領地にある城で、徳川家康が岡崎城から遠州にきた際に、この引間城に入り浜松城を築いた。引間は馬を引く負け戦を連想することから浜松に改名した。武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、引間城の北口にあたる玄黙口へ撤退していることから引間城が活用されていたそうだ。その後、浜松城の築城が進むにつれ、引間城は主郭ではなくなり、米蔵などが置かれ古城と呼ばれていたという。明治19年、東照宮が建立された。余談ながら東照宮は全国に130社あるがそのひとつ。東照宮のある場所は曲輪跡で周囲の道路が空堀跡と見られる。家康ゆかりの地でもあり、秀吉も来ていることから出世神社とも言われている。
浜松部会記念誌『浜松城と城下をめぐる』(400円・浜松市市民部文化財課編集・2015年3月25日発行)が、ずばり良い。浜松城の見どころのほか、曳馬城(引間城)の絵図や歴史、出土品などが掲載されているぞ。浜松城天守でGETできる。
また、現地には、石碑横に「引間城本丸跡」解説板が設置されている。
引間城(曳馬城)の関連史跡
玄黙口跡の碑
曳馬城の北口にあたる「玄黙口跡の碑」。三方ヶ原の戦いで、徳川方の逃れ来る味方を玄黙口から収容した。現在は道路脇に碑が建つのみだが、曳馬城本丸跡から徒歩3分もかからないので、ちらりと足を伸ばしておこう。
お田鶴の方の石碑と椿姫観音
第四代曳馬城主、飯尾乗竜(今川家重臣)の正室、お田鶴の方は曳馬城を守っていたが、永禄11年(1568年)12月、家康に攻め込まれ、城兵や侍女18人と共に打って出て全員討死する。この辺り一帯が戦場となった。家康はお田鶴の方と侍女を手厚く葬り祠を建て、築山御前が椿を植え、以後「椿姫塚」「椿姫」と呼ばれるようになっていく。祠は、椿姫観音堂から5m西北にあった小さな台地にあったと伝わっている。近年、御堂に観音像を祭り、椿姫観音堂には元浜松町の人たちによって大切に守られている。観音堂前には、「元曳馬城主、飯尾豊前守乗竜 奥方 お田鶴の方」と書かれた石碑がある。
そのほか、浜松城関連の歴史スポットは、浜松城ページで参照されたし。
引間城(曳馬城)のアクセス・所在地
所在地
鉄道利用
JR東海道本線、浜松駅下車、くるる乗り場発バス「浜松城公園入口」降車、徒歩5分。レンタルサイクルは、JR浜松駅から北東へ徒歩7分の「浜松市観光バス公共駐車場」で(TEL:053-413-2020)。詳しい場所は上記Googleマップ参照。
マイカー利用
東名高速道路浜松ICから県道65号線を2km、国道152号線を6km、浜松市役所駐車場(100台平日無料、休日有料)利用。曳馬城には駐車スペースが無いため、浜松城の駐車場から徒歩が良い。
東照宮を訪ねると良い。東照宮付近の道路は空堀跡で台地が曳馬城の曲輪跡となる。
城ファンの気になるところ (7)

曳馬城(引間城)は、浜松城の前身といわれ、浜松城の東、約300mに位置し、現在は東照宮となっている。
( shirofan)さんより
見るべきものは、東照宮の鳥居側にある石碑、境内北東の多少の土塁、台地の間を走る道(堀跡)のみ。このあたりは台地になっている。攻城時間は3分もかからない。
( shirofan)さんより
永正11年(1514)に、今川氏の飯尾賢連が今の東照宮附近に小規模の平城を築いたのが最初ではないかと言われているそうな。永禄11年(1568)に家康に滅ぼされ、元亀元年(1570)頃に曳馬城を取り込むかたちで浜松城を築城したらしい。明治になって東照宮が建立されたが戦災で消失し今は鉄筋の社殿がある。
( 光秀)さんより
2015年12月16日に若き家康と少年時代の秀吉の銅像が引間城跡(元城町東照宮)に建立された。家康没後四百年の記念事業のひとつだとか。
( shirofan)さんより
浜松城の前身、引間城のものと推定される堀跡が見つかった。2019年に10月19日に現地説明会が行われる。
( 彦)さんより
徳川家康公顕彰四百年記念事業で造られた、徳川家康公・豊臣秀吉公像(銅像)があるぞ。
( shirofan)さんより
引馬城城主飯尾連龍の妻「椿姫」は、夫の死後、城主として家臣を率い、徳川家康と戦い城を守ったとされている。浜松人にとって「女城主」と言えば直虎ではなく椿姫が親しまれている。
( 城好きの匿名希望)さんより