写真:岡 泰行
白石城の歴史と見どころ
白石城(しろいしじょう)は元々は当地の国衆、白石氏が築いたものだと伝わる。別名を益岡城、桝岡城とも言う。同氏が以前に名乗っていた刈田(かった)氏時代(後三年の役から源頼朝による奥州合戦の頃)のものだという説もあるが、文献的な裏付けは乏しい。
天正19年(1591)、豊臣秀吉による「奥州仕置」で、伊達政宗領だった会津若松に入封した蒲生氏郷。同じく伊達領だった刈田郡白石も蒲生氏のものとなり、氏郷は家臣の蒲生郷成を白石城に配した。このとき、近世城郭として整備されたという。文禄4年(1595)に氏郷が死去すると、跡継ぎの嫡男、秀行は宇都宮に移封となり、上杉景勝が会津に入封。家臣の甘糟景継が白石に入った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、そのきっかけにもなった上杉氏と、伊達氏や最上氏など奥羽の諸大名との間でも戦闘が繰り広げられた。本戦に先立つ旧暦7月、東軍による会津攻め(石田三成らの挙兵により実施されず)に呼応して、伊達軍は上杉領の入り口に位置する刈田郡に攻め入り、白石城を落城させた。後日、東軍主力が西をめざしたため、政宗は上杉氏に返還を申し出、和議が結ばれたとされる。しかし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、刈田郡は伊達領に組み込まれた。
最初は石川昭光、続いて慶長7年(1602)、片倉景綱(小十郎)が城主となる。以降、片倉氏が城主として明治まで続く。この間、元和元年(1615)には一国一城令が発せられているが白石城はその後も、存続を許された。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争の最中、奥羽列藩の重臣たちが白石城に集まり、会津藩の歎願を奥羽鎮撫総督府に斡旋する件の会議が開かれた。これをきっかけとして、奥羽列藩同盟(後の奥羽越列藩同盟)が結成されることになる。白石には同盟の公議所が設けられた。
列藩同盟はやがて崩壊。仙台藩は新政府軍に降伏し、白石城も明け渡された。戦後処理により、盛岡藩の南部家が白石に減封の上転封され白石藩が立てられる。その後、三陸磐城両羽按察府の設置や旧片倉家中開拓役所預かりなどを経て、明治7年(1874)に建物などが取り壊された。明治33年(1900)には公園化される。
平成2年(1990)の発掘調査などを下に平成7年(1995)、三階櫓、大手一ノ門、大手二ノ門が木造復元された。
参考文献:
『名城を歩く21仙台城』(php研究所)、『探訪ブックス 日本の城』(小学館)、『歴史探訪ミュージアム』WebSite、『しろいし観光ナビ』WebSite
白石城の特徴と構造
天守台は野面積みの石垣となっており、蒲生氏時代に造られたとされる。台上には大櫓と呼ばれた三階櫓があった。現在の復元櫓は石垣を積み直し、絵図をもとに木造で建てられたものだ。本丸から大手門にかけては打ち込みハギの石垣が並び、造られた時代の流れを感じさせる。
城内の主な建物は、三階櫓、大手一ノ門、大手二ノ門でいずれも復元。城外に移築されたものは、厩口門が延命寺山門に(白石市不澄ヶ池68)、東口門(二ノ丸大手二ノ門)が当信寺山門に移築されている(白石市本町62)。
白石城の撮影方法
素直に大櫓(天守)を美しく写しておきたい。午前、午後ともそれぞれ良い光の当たり方をするが、訪れた感触ではどちらかというと午前の方がより天守が映えるかと思われる。
白石城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る白石城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。白石城の関連史跡
片倉家中旧小関家 武家屋敷
白石城の北、徒歩10分の距離に、片倉家中旧小関家 武家屋敷がある。片倉家の奥方用人、小関家の屋敷で三の丸外堀である沢端川沿いにあり、平成3年(1992)に修復、公開されている(宮城県白石市西益岡町6-52)。
片倉小十郎歴代御廟
片倉家御廟所は、初代片倉小十郎景綱から十代宗景までの廟所で愛宕山山麓にある。珍しいことに九代城主まで石像が墓標となっている(宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山)。
世良修蔵の墓
会津藩に対する武力征伐を唱え、「奥羽皆敵」と記した手紙が発覚したことにより、福島城下で暗殺された、新政府軍の奥羽鎮撫総督府下参謀で長州藩士の世良修蔵ほかの墓(改葬されたもの)がある(白石市福岡蔵本字陣場45-4)。
近隣の主要な城
伊達領の支城として、岩沼城(岩沼市館下)、一関城(一関市釣山)、若林城(仙台市若林区)などがある。有名城では、仙台城(仙台市青葉区)、多賀城(多賀城市)など。
白石城のおすすめ旅グルメ
白石温麺(うーめん)は、元禄の頃、城下に住む孝行息子が胃病の父のために、僧に伝授された油を使わない麺を作って食べさせたところ、病が快癒したという話をルーツに持つ白石の伝統食。
約380年前、鈴木味右衛門という孝行者が油を使わない製法を旅の僧から教えられ父の病気を治したという話がある。これが時の城主、片倉小十郎に伝わり献上したところ、温かい思いやりを賞められ「温麺(うーめん)」と名付けられたのがその始まり。麺は、はたけなか製麺のものが多く、通常9cmの長さだが、まれに18cmの麺を使用している店もあり、箸に絡みやすく食べやすい。
白石城のアクセス・所在地
所在地
住所:宮城県白石市益岡町1-16(益岡公園内) [MAP] 県別一覧[宮城県]
電話:0224-24-3030(白石城歴史探訪ミュージアム)
開館時間
4月〜10月 9:00〜17:00
11月〜3月 9:00〜16:00
※入館は閉館時刻の30分前まで
※毎年12月28日〜31日は休館
400円(一般)
白石城、立体ハイビジョンシアター(歴史探訪ミュージアム3階)、武家屋敷の共通券は800円
アクセス
鉄道利用
東北新幹線白石蔵王駅下車、車で5分。
東北本線白石駅下車、徒歩15分。
マイカー利用
東北自動車道白石ICから10分。城下広場駐車場(白石市役所となり)、益岡公園駐車場(宮城県白石高校向かい)利用。
幕末に解体されたものを忠実に再構築したものなので、築城技術の再確認という意味でも大変貴重なものである。
( Yoshio KUROSAWA)さんより
再建されたお城で野面済みを採用したのは日本初らしい。木材はやっぱり桧。国内では良質で樹齢が高いものがないため台湾の桧を使用したとか。昔の宮大工の技が全て解明されたわけではないが樹齢千年の桧でその特性を生かして建てるとその建造物は千年もつと言われている。その木がない日本という国は、はずかしいかもしれない。
( 半兵衛)さんより
春は城近くの常林寺で桜を見るもよし。冬は白石スキー場で城を眺めながらスキーするもよし。白石に温泉アリ。宿泊施設も多い。
( 半兵衛)さんより
白石城の復元工事についての特集記事が掲載されていた本を見つけたのでご報告しておきます。「まちなみ・建築フォーラム(1998 4 No.5) 市ヶ谷出版社、定価1,000円。
( せんべい)さんより
土塀の狭間とか石落としなんかは他のお城と同じですけど、櫓の入口がものすごく急な階段なんです。手すりにつかまらないと上り下りできないくらいで…。本丸御殿のほうは復元されてませんでした。公園みたいに整備されてあったのでもう復元する気がないのでしょうか。櫓だけじゃなくて、御殿のほうも復元してもらいたかったんですが。
( 齊藤礼子)さんより
現地ボランティアガイドあり。頼んでみてはいかがかな?
( 渡邉 敬)さんより
白石城の城門、厩口門(うまやぐちもん)が、延命寺に移築されている。木造2階建で随分変わったデザインに見えるが、1階・2階の窓は、移築後の改造で、屋根も入母屋から切妻に変更されているらしい。
( shirofan)さんより
JR東北本線,、白石駅を降りると改札左手に観光案内書がござる。ここで市内の地図をGET。
( 石川造酒正)さんより
白石城から徒歩5分。市中を流れる沢端川の流れに沿って、城下町の面影を伝える武家屋敷が並んでいる。中でも旧小関家は創建年代の明確な貴重なもの。その他「片倉家御廟」東北自動車道を挟んだ反対側。また、城下には白石城の旧城門を移築保存している寺が2軒ござる。復元天守のみでなく、こちらも攻めるのがお城FANの真髄と存ずる。いずれも駅から徒歩数分の距離。
( Fumio Kobayashi・石川造酒正)さんより
本丸の一部が整備され、天守代用の大櫓と大手門が復元されています。大櫓の櫓台が野面積みによって復元されたことで有名ですが、一方復元するさいに本来の櫓台を潰し、その上に再構築されているので学術的な問題をはらんでいます。
( 氏綱)さんより