写真:岡 泰行
湯築城の散策コース
AM9:00~PM5:00 休館は、毎週月曜(祝日の場合は翌日)と12月29日~1月3日。入城無料。
湯築城の関連史跡
松山城とセットでど~ぞ。道後温泉も近いが、簡単に済ますのであれば、公園北側すぐにある足湯がベスト。
湯築城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
道後温泉すぐ近くなので周辺の温泉旅館がおすすめ。または松山城とセットで訪れることを前提にすると、松山城に隣接し天守群の眺めがすこぶる良いのが「ホテルJALシティ松山」と「東京第一ホテル松山」。料金もネット予約で安くなる。地図で見ると「チサンホテル松山」が最も近くにあるが、城山が大きいため、天守群のごく一部が最上階のダブルルームから見えるのみだ。なおこの3つのホテルは、リフトと反対側にあるため、歩いて城山に登らない人にはおすすめできない。松山は城のまわりにホテルが隣接しており窓から城が見えるかどうかは、こちらのサイトをチェックしよう!
道後温泉に行ったらすぐ横の道後公園(湯築城跡)へ。ちなみに「道後」という地名は、国分寺のあった今治を中心に都に向かって「道後」、西条あたりは「道前」と言ったらしい。
( 半兵衛)さんより
湯築城は径約350mの円形状で、中央に比高30mほどの山がある。二重の堀と土塁をめぐらせた平山城。南側の平地一帯は、平成14年4月(2002)に湯築城跡として復元整備の上、武家屋敷などが復元されている。東側が大手らしい。
( 半兵衛)さんより
湯築城は中世伊予の守護、河野氏の本拠地。14世紀前半から250年続いたが、天正13年(1585)に秀吉の命により攻めた小早川隆景によって河野氏の時代は終わる。その2年後、隆景は筑前名島へ移封となり、福島正則が短期間在城するものの府中の国分山に移り、湯築城は廃城となったそうな。慶長8年(1603)に加藤嘉明が松山城築城のため、石材を利用、その後は放置されたとか。
( 半兵衛)さんより
復元区域は、土塀を境に東側の上級武士居住区と、西側の家臣団居住区に分かれる。前者は、昭和28年(1953)から昭和62年(1987)まであった県立道後動物園の象舎などにより、弥生時代の層まで深く掘り下げられたため遺構が無い状態で、そのため分かった範囲での礎石などの平面復元となっている。後者は武家屋敷二棟、土塀、門ほか発掘成果に基づき立体復元されている。
( 半兵衛)さんより
内堀の水は、石手川の支流から現在も水を引いているらしい。城跡は、北東から南西に向けて2.5m傾斜しているとのこと。ちなみに池の水は、内堀から引いていることが発掘調査するまでは謎だったそうな。
( 半兵衛)さんより
25万点の出土品のうち、80%は素焼きの土器だったそうな。伊予では3ヶ所ほど焼き物の地があるそうでどこの土なのかは謎だそうだ。これらの一部は復元屋敷内にて展示されている。屋敷内では、木組みの体験ができるのも面白い。
( 半兵衛)さんより
土塁展示室は、その断面が見られる。愛知の小牧山と同様の展示方法。ここ湯築城では上部が砂礫層であることに注目。西方にある川がたびたび氾濫していたらしく、そのため砂礫が多い。余談だが初代松山道後温泉城主加藤嘉明が、家臣の足立重信に命じ、伊予川を堤防を築くなどして巧みに食い止め、その後、伊予川を重信川と呼ぶようになったそうな。人名が川の名前となっているのは珍しい。
( 半兵衛)さんより
山は部分的に調査されているらしいが、まだ細部はよく分からないらしい。本壇と杉ノ壇の間には空堀があったそうだ。その「杉ノ壇」は当時、杉が2本あったそうで、それが名前の由来らしい。ちなみに今ある杉の木は、西洋杉らしく当時のものではないそうな。
( 半兵衛)さんより
公園北側にある石造湯釜は、道後温泉の最初の湯釜で、石の上部にある隙間から湯が出ていたそうな。「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれており、これは河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれているらしい。
( 半兵衛)さんより
時期によっては、湯築城跡スタンプラリーがあるかも。4つのハンコをGETすると資料館で、復元武家屋敷のペーパークラフトなどがもらえるぞ。
( ガッツだぜ)さんより