写真:岡 泰行
甘崎城の歴史と見どころ
甘崎城(あまざきじょう)は日本最古の海賊の城と言われている。天智2年(663)、白村江の戦いで日本軍が唐軍に大敗して後、唐軍の侵攻に備え海防のため甘崎城は築かれた。この城は日本最古の海城と言われ、別名を天崎城ともいう。『日本城郭大系』(新人物往来社)では甘崎のネーミングについて、海士・海人は当時の兵制から「あま」、防人から「さきもり」の「さき」からきているのではないかとしている。芸予諸島で繁栄した村上氏は、もとは武装漁業集団とも言われ、南北朝時代には海上輸送と警護を行うようなった。元弘の乱で北条時直の水軍を破り海賊大将と呼ばれた村上義弘が死去して後、その名称をめぐり今岡通任と信濃村上氏の流れを汲む北畠師清の戦いがあり、北畠氏が勝利し義弘の跡を継いだ。このことから義弘までの村上氏を前期村上氏、師清以降を後期村上氏という。前期村上氏は越智大島を本拠としたが後期村上氏は伯方島を本拠とした。
応永26年(1419)、その発展のため因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏に分かれ、甘崎城は能島村上氏の今岡氏や来島村上氏一族の村上吉継が守った。今岡氏はそれまで伯方島に城を構えていたが新しい本拠地として甘崎城に移ったらしい。天正13年(1585)、小早川隆景率いる3万の軍が伊予に侵攻、村上三家のうち、因島村上氏、能島村上氏は伊予の地を去った。
関ヶ原の戦いの後、藤堂高虎が今治城に入った。高虎は支城となった甘崎城を、海峡が狭く鉄砲の射程内となるため、総石垣の城へと大改修を行い、近世城郭へとアップデートさせた。広島城の福島正則を監視するのがその目的だ。この時、多くの岩礁ピットは石垣に取り込まれた。慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊勢へと転封となり甘崎城は廃城となる。江戸時代の元禄4年(1691)にドイツ人医師ケンペルが船で甘崎城跡の沖を通り、その著書『日本誌』で「水中よりそびえる水砦あり」と記しヨーロッパで紹介されている。これは廃城後もその姿があったことを示している。
『江戸参府旅行日記』(平凡社)はケンペルの現代語訳版で、この地方のことを次のように書いている。
「ここから五里行くと狭い海峡がある。左手の海岸に鼻繰村というのがあり、われわれはそこで新しい水を補給するために、約1時間停泊していたが、その間にもたくさんの帆かけ船が通り過ぎて行った。鼻繰村は戸数六○で二つの山の麓にある。それゆえこの名がある。なぜなら鼻繰というのが鼻の穴のことを意味し、その地形からこの名がある。塚のように藁を積み上げた九つの小屋があって、その中で海水から塩を作っていた。そこからそれほど遠くない所の海岸には他の漁村があった。鼻繰村から一里行くと垂水という村があった。この二つの村の間には、海中から突き出ている水砦が見られた。それは、海峡の幅がピストルの射程を超えないほどなので、いざという場合に航路をふさぐのが目的で築いたのである。」 鼻栗瀬戸と甘崎城の描写で城の存在理由にも触れているのが分かる。
その後、幕末期に地元大三島の護岸工事に使用され、大部分の石垣は残っていないが、年に数回の干潮のつかの間、海より石垣が現れ往時の姿を垣間見ることができる。この仕掛けがなんとも海賊の城らしく歴史ロマンがあふれている。
甘崎城の特徴と岩礁ピット
甘崎城(古城島)は、周囲約600mの古城島全体を城郭化した海城で、本州と四国を結ぶ最短距離にあたる主要航路「鼻栗瀬戸(大三島と伯方島の間の幅約300mの海峡)」を押さえる位置にある。島には水源がなく対岸の大三島に水場を持っていた(水場地区まで約340mの距離で古井戸が伝わる)。古城島の東側岩礁には、岩礁ピットと呼ばれる柱を建てた穴が無数にあり、海に向かって並んでいるものや、陸地と平行に伸びているものなどのピットの配列が見られる。島の中心部は標高19.9mの南北に細長い山で、北郭、郭II、南郭と3つの郭が並んでおり、当時は南面、東面、北面に登り口があった(各郭は木々も生い茂りまたその稜線を明確には確認できない)。藤堂高虎時代に総石垣の城となり、島の周囲を計32列、延長約700mの石垣で囲っていた。
海面下に今も残る石垣は、大潮の干潮時に姿を現す。城の西側と東側は石列(石垣の根石)が見られ、南側には隅部が算木積みになった石垣が3〜4段分ほど残っている。また、つい見落としがちになるが、海に面した虎口跡は東側にその石列が残っている。島を一周すると遺構をつぶさに見ることができ、また城の規模が体感できる。
なお、甘崎城の詳細な縄張図は、村上海賊ミュージアムにあるので、能島城に行く際に立ち寄っておくと良い。
甘崎城の散策コース
甘崎城の潮位、渡るチャンスは年に数回の大潮の干潮
甘崎城(あまざきじょう)は周囲約600mの小さな島で古城島という。その見どころである岩礁ピットや石垣は普段は海に沈んでいる。これを間近に見るには、年に数回の大潮の干潮時に大三島(おおみしま)と陸続きになる古城島に約200mを歩いて渡る必要がある(古城島は無人島)。
潮位を事前に予測するには甘崎城に近く、当時の主要航路でもある「鼻栗瀬戸(はなくりせと)」の潮位を主に参考にすると良い。鼻栗瀬戸は大三島と伯方島(はかたじま)の間の幅約300mの海峡だ。詳しくは下記サイトで年度ごとの予測とともに詳しく解説されているのでチェックしておくと良いぞ。
- 鼻栗瀬戸の潮汐表(Anglr)
筆者は2001年から現在まで甘崎城に4回訪れ、うち3回渡っている。狙うは5月〜8月の間の大潮の干潮時で、島が陸続き(海割れ)になる時を狙う。この時の潮位はマイナスの値が理想だが、せいぜいプラス10cmほどまでだ。潮が満ちるのは早く、仮に潮位プラス50cmでどこが浅いかを知っていて渡った場合、石垣を見てすぐに戻らないと、頭まで海に覆われることになる。潮位がマイナスの場合、島を一周できる時間的な余裕があるが、島に渡っている時は、周囲を見渡し潮位に気をつけておき、少し早めの撤退を心がけると良い。また、水面下の多くは砂地だが、島に上がると岩の上を歩くことになるので濡れてよい靴やサンダルは必須。もしも初めて訪れて陸続きになっていない場合は、浅い場所を把握できないため島に渡るのをやめる決断も必要だと覚えておこう。
甘崎城の撮影方法
甘崎城を対岸(大三島)から撮るには日の当たる午後が良い。甘崎城に海を渡って撮影する場合は少しコツがある。甘崎城の南側に残る石垣の城外側(つまり石垣から海側)は、石垣を境に少し深い。つまり、できるだけ潮位が低い時でないと、石垣のコーナー部を外側から撮影できない。おまけに引いて撮れないので、できるだけ広角レンズを持っていく方が良いだろう。
甘崎城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る甘崎城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。甘崎城の関連史跡
甘崎城対岸の大三島、水場地区付近の明光寺に「伝・村上吉継の墓」がある。また、大三島にある、大山祇神社とその宝物館は一度は足を運んでおきたい。源頼朝、源義経の鎧や弁慶の長刀、女性用の鎧がある。この女性用の鎧は非常に珍しいもので大祝鶴姫(おおほうりつる)通称、鶴姫の鎧と言われ、紺糸裾素懸威胴丸という。
甘崎城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
大山祇神社も合わせて巡るとすれば、大三島で宿を探すと良い。また、海賊の城、能島城と来島城、この甘崎城の干潮をうまく狙うには、1泊2日以上かける必要があるので、福山城付近もしくは今治城付近をベースキャンプにして一泊しても良い。
甘崎城のアクセス・所在地
所在地
住所:愛媛県今治市上浦町甘崎4661 [MAP] 県別一覧[愛媛県]
電話:0897-87-3000(今治市役所上浦支所 上浦地域教育課)
アクセス
鉄道利用
JR西日本、山陽新幹線、福山駅からバス「しまなみライナー」、大三島BS降車、国道317号線を南へ徒歩約11分(約900m)で甘崎城(古城島)の対岸。堤防上に甘崎城の解説版がある。
マイカー利用
西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)、大三島ICから、国道317号線を南へ600m(約7分)護岸に3台ほどの駐車スペースがある。
甘崎城のような島城は(というより海賊城全般)、独立して存在するのではなく、対岸の集落や水場があることにより、はじめて成立しえると云われていますが、来島城に関しては、この大浦の地が紹介されています。現在、海岸線からほんの少し入ったところに、小丘があり、荒神社になっていますが、かつてはここに大浦砦があったとされています。地形図で見ると、この地の重要度が分かるのですが遺構は何もありませんし、僕が訪ねたときは雑木でがさごそで海はすぐそばなのに、眺望も全く利きませんでした(ただ立看板はあります)。
( AKI)さんより
映画監督大林宣彦氏が「海の味がする」と言った、大人気の伯方の塩ラーメン「さんわ」の伯方の塩ラーメンは、2年前に瀬戸内海をイメージして創られた。自然塩の伯方の塩を使ったナチュラルでシンプルな味。スープにとろける岩海苔の香りが一層海の味を引き立てる。いままでの塩ラーメンの常識を覆した本当に旨いラーメンだ。「さんわ」は、民宿も経営しており安くて手軽に泊まれ、夕食には驚くほどたくさんの海の幸が出される。また、シーカヤックの貸し出しもしていて、瀬戸内海を遊ぶには最高だ。
( 福原定俊)さんより
甘崎城は、大山祇(オオヤマヅミ)神社が鎮座する大三島の東側・約130mの沖合に所在する。周囲約600m、東西約200m、南北幅最大約20mの細長い小島である。頂部は四段に削平され、東端に2つの島が付属する。島の南側の岩礁上には多数の柱穴を見ることができる。浅野文庫蔵「諸国古城之図」(広島市立中央図書館)の中に甘崎城の古絵図が残されている。「諸国古城之図」の原本の成立は1683年ごろとされるので廃城後70年ほどの同城の姿を伝えていることになる。その絵図では、石垣が曲輪のほぼ全周にわたって築かれている。しかし現在では、島の北側と南側に数列ずつ見られるばかりである。石垣は、大潮の干潮時という僅かな時間帯だけ水上に露呈する。
( 福原定俊)さんより
この界隈にくると因島水軍城、甘崎城、能島城、来島城、小島(芸予要塞跡)はセットで訪れておきたいところです。
( shirofan)さんより
甘崎城の岩礁に、海に洗われない位置に大穴のピットがありますが(1つだけ見つけました、2つあるそうです)、これは雨水や真水を貯めていたものではないかと推測されているそうです。その大穴からちょうど登り口があります。
( 斎門)さんより
西日本では結構流れていた「伯方の塩」のTVCMはご存じでしょうか。てっきり九州の博多(はかた)かと勝手に思い込んでいましたが、大三島と伯方島(はかたじま)で造られているそうです。伯方塩業株式会社の大三島工場が見学できます。
( 城好きの匿名希望)さんより