松本城の歴史
前身は戦国期の「深志城」
松本城は、長野県松本市内にある平城。戦国時代の永正元年(1504)に島立氏が築いた深志城が前身といわれているが、はっきりしない部分も多い。この地を治めていた信濃守護の小笠原氏が平地の井川から山麓の林城に移った時に、家臣たちがそれを囲んで守るために支城を構えたが、この頃に深志城も造られたとされる。
その後、武田信玄が信濃に進出し林城を攻撃。小笠原長時が敗走すると、深志城は武田氏の信濃支配の拠点となる。しかし、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡、その後に信濃を支配した織田信長が10月に本能寺の変で討たれ、信濃の情勢が混乱(天正壬午の乱)。小笠原長時の嫡子である貞慶はこれに乗じ、旧臣などの支援で深志城を奪還する。この頃に、深志城の名を「松本城」と変えた。
天守建築は石川数正・康長父子
天正18年(1590)の小田原合戦を経て豊臣秀吉が天下を統一すると、石川数正が松本城主に任命される。城郭や城下町の整備は小笠原氏が始めていたが、数正もこれを続けた。子の康長の代には、天守3棟、御殿、太鼓門、黒門、櫓、塀なども築造。以後の松本城は、徳川家と深いつながりを持つ譜代大名が城主となり、明治維新まで存続した。本丸御殿は享保12年(1727)年に焼失し、他の建物も明治時代に焼失や取り壊しでなくなるが、現在も残る天守はこの時のもので、文禄2年から3年(1593〜1594)に築造されたと考えられている。
明治の廃城と地元による天守保存
明治時代に入り、松本城は全国のほとんどの城と同様に廃城となる。西洋の新しい思想や物が入ると同時に日本の伝統的な古い物を破壊していく傾向が強くなり、松本城も櫓・門・塀などが壊され、天守も競売で払い下げられたが、市川量造による保存運動が高まり、地元住民の尽力で買い戻した。だが経年の劣化は進む一方で、建物がひどく傾斜し倒壊する危険もあった。
そこで明治34年(1901)に松本中学校長小林有也の呼びかけで保存会を設立し、募金により明治34年から大正2年(1913)まで約10年間を費やして大修理が行われる。このとき天守の柱にロープをかけて傾きを治したが、そのロープを掛けた跡が天守5階の柱に残っている。この時には資金の関係もあり応急的な修理だったが、昭和25年(1950)に行われた大修理では、天守を解体の上で調査し、傷んだ部分を取り替えるなど、根本的な修理が施された。現在も幕末の松本城の姿を目指し、石垣の改修や堀の復元などの事業が進められている。
写真(下)は、松本城天守の柱に残るロープをかけて傾きを治した跡。
(文:haya 写真=岡 泰行)