写真:岡 泰行
膳所城の歴史と見どころ
膳所城(ぜぜじょう)のある大津は琵琶湖の交通の要衝と言ってよく、京の入り口となる軍事的な要素が強い。その地名も、大きな港を意味する。大津には坂本城、大津城、膳所城の3城の水城が時代順に築かれた。本能寺の変の後、明智光秀の坂本城から石垣や建物、城下町を移し、浅野長政により大津城が築城される。その後、関ヶ原の合戦時は京極高次の居城であったが豊臣勢に攻められ落城する。慶長6年(1601)、徳川家康はその隣に位置する膳所に、新たな城を天下普請で築いた。膳所城は天下普請の第一号となる。縄張りは藤堂高虎。城主は戸田氏が膳所藩の祖となり、その子、戸田氏鉄は尼崎城に転封となり、その後は、本多氏、石川氏、再び本多氏が入り13代続き明治を迎え城は取り壊された。
元禄4年(1691)、膳所を訪れたドイツ人医師ケンペルは、次のように書いている。
「この町は門の両側に、低いけれどもきれいな土手をめぐらし、道は東と南に向かってまっすぐ通じ、家々は白く塗られている。町の北側にある城は半分は湖に、また半分は市街地に囲まれ堂々として大きく、日本の様式によって高い四角形のたくさんの屋根と櫓がこれをひきたてている。」
(『江戸参府旅行日記』(平凡社)より)
湖城の膳所城の威容が垣間見られる。
琵琶湖に面する水城はどこもその形を残していない。この膳所城もかつは本丸や二の丸、北の丸などの曲輪が湖に浮かんでいた水城で、日本三大湖城のひとつと言われている。現在、本丸跡が膳所城跡公園として整備されているが、明瞭な城郭の稜線は確認しずらいが、移築城門の数が全国屈指と言って良く、大津付近や大阪の泉大津市に残っている。訪城の際は是非コンプリートしてほしい。
膳所城のめぐり方
膳所城は、明治3年(1870)の膳所城廃城で、城の遺構は寺社などに移された。その中心部、本丸跡である膳所城跡公園と、移築された城門で往事を想像するお城(膳所城跡公園は散策自由)。移築城門遺構の多さでは伏見城に肩を並べる勢いだ。本多氏で明治維新を迎えたことから城門には立葵の紋が数多く見られる。膳所城跡を訪れた際は最低でも重要文化財の移築城門3つは見ておきたい(膳所城の移築城門の場所はGoogleマップでチェック)。
重要文化財の膳所城移築城門
膳所城移築城門・移築櫓そのほか
城門(膳所神社北門)
城門(膳所神社南門)
お碗倉(十六体地蔵堂)
南口総門番所・粟津番所(民家)
※平成18年(2006)解体
犬走門(若宮八幡神社)
お倉門(御霊神社)
米倉門(近津尾神社)
本丸二層隅櫓(茶臼山公園芭蕉会館)
水門(新宮神社)
そのほか、草津宿本陣は、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部だとする話が伝わっていた。享保3年(1718)の草津宿大火の後に、膳所城藩主別邸瓦ヶ浜御殿の一部を拝領し、再建したと伝わっていたが、平成元年度以降の保存修理によってその建物でないことが判明している。
膳所城の南口総門「瀬田口総門」について
大阪府泉大津市松之浜に膳所城の移築城門がある(場所は上記Googleマップを参照)。この高麗門は、膳所城の南総門。膳所城は東海道を取り込むかたちの城だった。西の大津口(西総門)から、この南総門を通行するといった具合だ。
明治5年(1872)に膳所城から滋賀県大津市内の建部神社に移築され、その後、細見家が購入し大阪府泉大津市に移築された。特別に門の内側も見せてもらった。細見家の方の話によると、昭和12年(1937)に、トラック40〜50台で資材を運搬したそうで、その時に瓦の大半が割れてしまったそうだ。よく見ると一部を残し葺き替えられている。鯱瓦もその時に小ぶりなものに替えられた。
また、太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして塗り込められている(門の内側に見られる)。膳所城の移築城門の中では、その保存状態から堂々たる風格が香る門ではないかと思われる。普段は門の内側に入ることはできないが、岸和田城散策ついでにちょっと足を伸ばして訪ねてみるのもいいかも。
南総門の外観。よく見ると柱下の飾板や釘隠が一部、無くなっている。
門の内側。高麗門であることがよく分かる。特別に入らせてもらった。
熨斗瓦の間に菊丸瓦が入っている(茶色の部分)。太平洋戦争の時、菊の御紋は恐れ多いとして土で塗り込められた。
鬼瓦や軒瓦に本多家の立葵の家紋が見られる。この写真では分かりづらいが、後に付け替えられた鯱の尾がちらりと見えている。
河内西代陣屋
近江の膳所藩は、近江に加え河内三郡を領していた。その代官所跡が大阪府河内長野市の古野町にあった。近江膳所藩から分かれた本多忠統が長野小学校付近に河内西代陣屋を正徳元年(1711)〜享保17年(1732)まで置いていた。その跡地に建つ長野小学校の正門は陣屋門を模して作られている。大阪の烏帽子形城を訪れた際にはすぐ近くなので寄っておこう。
膳所城の関連書籍
大津市歴史博物館(京阪別所駅から徒歩数分)には、膳所城の復元模型があり、『大津の城 ふるさと大津歴史文庫 2』(大津市歴史博物館企画編集・147p)や築城から幕末までをまとめた図録『膳所城と藩政』が刊行販売されている。大津市歴史博物館では膳所城の関連展示は、膳所城図、膳所城の寛文2年(1622)の大地震による城郭変遷などの絵図などがあり理解を深めることができる。
琵琶湖に浮かぶこの城も、本の丸付近が公園となっていますが、破壊が著しく天守閣跡(石碑あり)北側に石垣がわずかに残っているだけ。琵琶湖が残る石垣の下に迫っており、当時の水城を偲ばせてくれます。
( 中西)さんより
膳所藩は廃藩置県・版籍奉還に際し、他藩にさきがけてこれらをおこなったがその理由は「財政の窮乏」である。それほどに近江膳所・本多家の財政を苦しめた因とは、琵琶湖の湖水に洗われた石垣のたびかさなる崩壊であったのだ!琵琶湖につきだした膳所城跡は、現在膳所公園となっており、人々の憩いの場となっている。みなさんぜひ膳所へおいでください。
( 冬扇先生)さんより
膳所城は本丸跡が琵琶湖岸の公園になっています。発掘調査では石積みなどの遺構が見つかっていますが、現在は特にわからないと思います。ただ、城門は市内各地の神社などに移築されて残っています。
( 辻本@近江の国)さんより
本丸二層隅櫓が一部改築され茶臼山公園の芭蕉会館となっている。芭蕉会館の裏手にまわれば櫓であることがよく分かる。芭蕉会館は現在あまり使われておらず、場所は茶臼山公園の中腹にある。
( 半兵衛)さんより
日本三大湖城のひとつ。松江城、膳所城、高島城だそうな。
( 光秀)さんより