写真:岡 泰行
宇陀松山城(秋山城)の歴史と見どころ
松山地区まちづくりセンター「千軒舎」に宇陀松山城の簡単な縄張図が展示されている。
また、宇陀市のWebサイトで教育委員会による『史跡宇陀松山城跡出土資料展』パンフレットのPDFが閲覧できる。
宇陀松山城(秋山城)の散策コース
春日神社と背後の山城、特に時間制限はない。
秋山城と松山陣屋
宇陀松山城と松山陣屋は、別の城と捉えるべきかもしれないが、ここに時代順に記しておく。現地観光マップに、織田藩上屋敷跡、織田藩向屋敷跡などの記載があるが、流れを知っておくとややこしくないかも。
宇陀松山城(別名:秋山城)
南北朝時代に秋山氏によって築かれた山城。秋山氏の詰の城といわれ、平時の居館跡(下城)を秋山城の南の尾根上に設けていた。春日神社に残る秋山陣屋(向屋敷)の春日門跡を通り、山道を登ると宇陀松山城に至る。
秋山陣屋(長山屋敷)
織田信雄が入封したときに築かれた陣屋。宇陀市大宇陀地域事務所あたりにあったと言われているが特に遺構はない。
秋山陣屋(向屋敷)
織田信雄の孫の長頼が築いた陣屋。寛文11年(1671)ごろに長山屋敷から移った。現在の春日神社西側付近とされ、後に造営された上屋敷跡を含む。春日神社の参道に「春日門跡」の石垣が残る。
宇陀松山城(秋山城)の関連史跡
春日門跡
春日神社の参道に残る、秋山陣屋(向屋敷)の門跡。櫓をのせていたと伝わる石垣が両サイドに残っている。
西口関門
福島総部頭孝治が居城とした際に作られたとされる唯一の建築物といわれている。門をくぐると虎口となっているのが分かる。場所が城下町のメインストリートから見えない場所で、少々分かりにくく、観光マップで確認するか地元の人に聞くと良い(地元観光マップでは「黒門」と表記されている)。
城下町散策を
秋山氏が築いた城下町。豊臣政権下、宇陀松山藩、天領時代を経て、現代にその町並みを残している。豊臣政権下のとき、阿貴町から松山町へ町名が変更された。平成18年(2006)に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
秋山氏の菩提寺、慶恩寺
秋山氏の菩提寺で「秋山城主之碑」や「秋山家4代の墓宝塔」がある。天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山城に入り、筒井順慶らと大和勢力の追放を行い、この時、秋山城を退去している。その後、秋山城は破却され、織田信雄の代に山の麓に秋山陣屋が築かれることとなる。
徳源寺に織田松山藩主四代の五輪塔
松山城の西の徳源寺に、織田松山藩主四代の五輪塔がある。寛永5年(1628)に、織田信雄はここに埋葬されたと伝わっている。近畿地方ではほかに、安土城の二の丸に織田信雄四代の供養塔がある。
又兵衛桜
後藤又兵衛が、大坂の役の後、宇陀町山に落ち延び僧侶となったという現地の伝承がある。その屋敷跡に「又兵衛桜」と呼ばれる一本桜がある。しだれ桜で樹齢推定300年、13mの高さがある(西口総門から西へ車で8分(2.8km)の距離)。後藤又兵衛は大坂の役の折、大阪の道明寺河原で討ち死し、又兵衛の妻の実家に随行するかたちで、その墓は、鳥取の景福寺にある。ほかにも伝承地があって、大分県の中津市の耶馬溪に、大坂の役の後に落ち延び、余生を過ごしたと伝わる地があり、そこにも後藤又兵衛の墓がある。
宇陀松山城(秋山城)のおすすめ旅グルメ
まちなみギャラリー「石景庵」は必須
まちなみギャラリー「石景庵」で、うどんをどうぞ。観光マップもGETできる。何よりもその裏手に、松山城の石垣が見られるぞ。一部、後世の積み直しにも見えるが虎口らしき構造と石垣がある。
宇陀松山城(秋山城)のアクセス・所在地
所在地
住所:奈良県宇陀市大宇陀春日 [MAP] 県別一覧[奈良県]
鉄道利用
近鉄大阪線、榛原駅下車、バス15分「大宇陀」降車(大宇陀停留所は道の駅)、北へ徒歩500mで城下町エリア。登山口である春日神社を目指す。道の駅から春日神社まで徒歩14分。途中、松山地区まちづくりセンター「千軒舎」に寄って縄張図を見るべし。
マイカー利用
名阪国道針ICから国道369号線を南下、約31分(19.4km)、大阪方面からは、南阪奈道美原北ICから約60分(66km)。いずれも宇陀松山道の駅に駐車し、徒歩散策。登山口の春日神社や城下町には公的な駐車場は無い。
平成20〜23年度、宇陀松山城の史跡整備に伴い発掘調査を実施。ひと昔前と異なり、城跡はかなり整備されていて遺構が見やすくなっている。なお、発掘調査で大量の遺物が出土したが代表的なものは鯱瓦で、天守郭周辺から出土している。
( shirofan)さんより
奈良では、規模的には、大和郡山城、高取城、宇陀松山城の3城を、戦国時代的には、信貴山城、多聞山城、筒井城の3城を見ておきたい。
( shirofan)さんより