写真:岡 泰行
富松城の歴史と見どころ
富松城は応仁の乱の少し前に築城されたと推測されている城館で古尼崎城と有岡城(伊丹城)と越水城の中間に位置する。その記録は京都の『大徳寺文書』のうち、大徳寺塔頭如意庵領鳴尾(現西宮市)からの年貢の修正決算報告に長享2年(1488)に登場する。大徳寺は尼崎城か築城されるまではその本丸地にあり築城に際し寺町に移されている。天文19年(1550)、三好長慶が有岡城(伊丹城)を攻めるため富松城が使用され、その後、天正6年(1578)、織田信長による荒木村重の有岡城攻めでは付近の陣所を、二重三重にすることを命じており、この時、富松城も長大な堀が築かれたのではないかとされている(2016年の発掘調査で長大な堀が見つかっている)。城の全体像は明らかにいないがその中心部は、東西150m、南北200m以上の城館で二重の堀で守られていたことが、発掘調査などから明らかになっている。
(参考文献:『富松城』尼崎教育委員会)
富松城は平地に築かれた城館で高さ約4m、長さ約50mの土塁が残っている。現在、土塁前には道路より深い高低差があるが、本来は道路は堀跡で、その他発掘調査で2本の堀が確認されている。平成28年(2016)9月に尼崎市が土地を取得し保存活用していくことができるようになった。
尼崎城本丸跡に建つ尼崎市立歴史博物館で富松城のA4二つ折りのパンフレットがGETできる。尼崎市教育委員会発行。
富松城の撮影方法
富松北口交差点北側から土塁を狙うと良し。撮影は順光になる午後が狙い目。
中世の城跡富松城は、いまやぽつんと市街地の中に取り残されたようになっていますが、500年も前からの城が今正にそこにあります。土塁跡もあり、兵庫県下でも大変貴重な遺構と言える文化財です。伊丹・尼崎・越水城跡や荒木村重、織田信長、三好長慶などとも大変かかわりの深い城です。しかし、この遺跡が取り壊しの危機に瀕しています。2002年末には競売物件になる恐れがあります。お近くの方は是非、富松神社の宮司さんへお力を貸してあげて下さい。どんな些細な事でも、励みになりますし、行政にみんなの声が届けば大変いい事だと思います。貴重な文化財を破壊の危機から守るため、どうぞみなさんの声をお寄せ下さい。宜しくお願い致します。富松神社の宮司さんを応援している池田勝正(ハンドルネーム)でした。
( 池田勝正)さんより
長享元年(1487)11月の記録文書が初見のようですが、最も頻繁に記録上に現れるのは、永正16年(1519)の細川高国・澄元が争った時のようです。兵庫から尼崎の要地(港)を近隣に持つため、戦略上の拠点として、四国を中心とした勢力が次第に畿内に進出する戦国時代末期まで、この後富松城の名も頻繁に登場しています。三好長慶も本陣を置いたとされています。また、この城を守っていたのは瓦林氏が多かったようです。(参考:日本城郭体系12-P348)
( 池田勝正)さんより
富松城について詳しくはこちらをどうぞ→[富松城跡を活かすまちづくり委員会]
( 半兵衛)さんより
2016年9月、富松城の発掘調査で、城の北側に同時代の堀が見つかった。その規模から大規模な城だったという見方が強まった。発掘場所は店舗建設予定地で埋め戻されるらしい。
( shirofan)さんより
平成28年(2016)9月に尼崎市が土地を取得し富松城の土塁を保存していくことができるようになった。
( shirofan)さんより
富松城付近の町中に散見られる、うさぎ形の石は、米つき石で精米する際に使用していたもの。富松城付近は、明治頃まで一面田んぼで米所だったことを示す名残りだ。
( カンダタ)さんより