写真:岡 泰行
多聞山城の歴史と見どころ
奈良東大寺の近くの眉間寺山に多聞山城はある。標高115m、比高約30mと低い山城だ。この立地は、東大寺やそれまで大和国守護だった興福寺など見渡す範囲が広い。永禄3年(1560)、この地を選んだ松永久秀は、当時としては斬新な城を築き、永禄7年(1564)に完成する。4層の多聞櫓があり(信貴山城にもあったとされる)、これが後に城郭史上、後の天守となる。また、長屋が塁壁上に築かれたていた。全国の城で「多聞櫓」と分類される櫓は、この城のネーミングが由来とも言われている。永禄8年(1565)、多聞山城に招かれたポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダは、壁は白漆喰で屋根は瓦葺き、幅約2mもの板(巨木)を使用と書き残している。また、本丸御殿や能舞台、茶室、庭園もあり、客人に見せる城となっていた。要するに多聞山城は近世城郭の先駆けと言っていい。
松永久秀は後に信長に反逆し多聞山城を明け渡すことを条件に許され、天正元年(1573)、多聞山城は信長のものとなる。その後、天正5年(1577)に城は破壊され、建物は信長の旧二条城へ、石垣は筒井城に転用された。松永久秀は信貴山城に籠もり再び信長に謀反を起こすが信貴山城で自刃することとなった。
参考文献:毎日新聞2022年4月26日記事・Wikipedia
現在の多聞山城
本丸跡に奈良市立若草中学校があり、東に道路を挟んで隣接する森と、西に隣接する聖武天皇陵・仁正皇太后陵(立ち入り禁止)がその跡地。小学校東の道路は、東堀切跡と言われている。西の天皇陵は立ち入り禁止だが、若草中学校前の階段右手に多聞城跡を示す石碑がある。城の遺構としては、堀切が奈良市立若草中学校の事務所で、多聞城の小冊子をGETできる。校内には石垣に転用されたと見られる石仏や墓石などがある(非公開)。
多聞山城の撮影方法
城跡の全体像は、多聞山城址の東に、三笠霊苑があり、車道から多聞山城を見下ろすことができる。奈良盆地と多聞山城の平山城いったロケーションが分かる。余談ながら、三笠霊苑には島左近の墓がある。
多聞山城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る多聞山城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。多聞山城の関連史跡
ここはもう、松永久秀と関連深い「東大寺」。永禄10年(1567)、三好・松永久秀の兵火で消失し、その後、約120年間、大仏は雨ざらしになっていたそうな。また、城関連なら、多聞山城の城門が奈良県生駒郡安堵町の環濠集落に「旧石田家住宅」の門として移築されているぞ。多聞山城からちょっと遠いけど。門前に石碑もある。(詳しい場所は上記Googleマップ参照)
多聞山城のアクセス・所在地
所在地
アクセス
鉄道利用
近鉄奈良駅、JR奈良駅下車、バスいずれも「法蓮仲町」降車、北東へ徒歩10分。奈良市立若草中学校を目指す。近鉄奈良駅からなら、東大寺を経由し徒歩散策も良いかも。
マイカー利用
京奈和自動車道「木津IC」から約6km(17分)、第二阪奈有料道路から約7km(17分)、西名阪自動車道「天理IC」から、約9km(21分)。奈良市立若草中学校を目指す。
「多聞櫓」の名の由来になった城。
( 松永久秀)さんより
奈良では、規模的には、大和郡山城、高取城、宇陀松山城の3城を、戦国時代的には、信貴山城、多聞山城、筒井城の3城を見ておきたい。
( shirofan)さんより