写真:岡 泰行
周山城の歴史と見どころ
周山城は、明智光秀が丹波攻略を行った後の天正8年(1580)に、東丹波地方の要として築かれた。明智光秀は天正3年(1575)、信長から丹波攻めを命じられ、赤井氏の黒井城、波多野氏の八上城を攻略し丹波を平定、信長から丹波一国を拝領した後、本城として亀山城を、中丹波の拠点として福知山城を、また西丹波の拠点として黒井城と八上城を石垣の城へと改修し、東丹波の拠点として周山城を築城した。
周山城の立地は若狭小浜と京都を結ぶ周山街道(国道162号線)や亀山城へと流れる大堰川(桂川)がある要衝。大堰川は山国荘から木材を運ぶルートでもあり、この地には京都を守る役割もあったらしい。標高480m(比高230m)の城山に築かれた周山城は主郭部といえる東城、主郭部から尾根続きの西城と分かれている。前者は総石垣の城で後者は土の城だが、築城時期は同時期と見られている。西城の築城意図は未だ明らかになっていない。東城の特徴は、最高所の主郭から尾根に曲輪を設けている。曲輪の数は44あり随所に虎口が設けられ総石垣で造られていたが、後の秀吉のよる破城で崩された。縄張りや石垣の積み方から織豊系城郭と見られている。主郭の西尾根には当時の姿を彷彿とさせる高さ約6mの石垣が残っている。主郭には大規模な櫓台(天守台)の痕跡があり、E字型で3カ所の入口を持つ穴蔵を設けた櫓が建っていたと推測されている。そのほか、東の尾根と主郭を結ぶ石垣が、安土城の北東の地下通路のように特徴的で登り石垣を用い、斜面の曲輪を一体化するかの如く繋いでいるのが珍しい。
天正10年(1582)、山崎の戦いで明智光秀が滅んだ後、周山城は秀吉の城となった。その後、加藤光泰が一時入るが、後に廃城となる。現地古老によると、この時、麓から人目につきやすい南と東の尾根の石垣が下部のみ残され徹底的に破壊され、逆に人目につきにくい北と西の尾根は、石垣が残っているケースがあるとのこと。先の西尾根に残る高さ約6mの石垣もそのひとつだ。現在見られる城跡の規模から、周山城は光秀の丹波の城として、その存在感はかなり大きなものだったのに違いない。
縄張図掲載の書籍
周山城を紹介する書籍は、『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』(歴史春秋出版 2015年06月発売)縄張図も掲載されている。そのほか、『京北の文化財』69号(2020年5月1日刊)にて、赤色立体図とともに周山城跡の最新調査成果が掲載されている。
周山城の撮影方法
主郭北側の西曲輪の側面に壮大な石垣が残るのでお忘れなく。
周山城の関連史跡
光秀ゆかりの慈眼寺と篠山藩周山代官所跡
周山城の麓に明智光秀ゆかりの寺として知られる慈眼寺がある。密かに祀ってきた木坐像と位牌が安置されているのだとか。またその並びに篠山藩周山代官所跡がある。削平地を駐車場として利用しているものと思われ、その一角に石碑が建つ。明治18年(1885)に、周山村を含む北桑田郡の役所がこの地に移ったため、石碑には「篠山藩周山代官所跡」に加え、「北桑田郡役所跡」と刻まれている。近代には京都府京北事務所が置かれた。
周山城のおすすめ旅グルメ
麓の「道の駅 ウッディー京北」でとうぞ。
感動しましたね。石垣はもちろん、登るとここには門があったのでは?と思わせるつくりもあるし、更に登ると井戸の跡なんかもある。そのあたりも石垣が見え隠れしていましたね。
( お市)さんより
周山城をひと言でいうと、光秀築城の謎の総石垣の山城。選地、築城理由が謎とされているらしい。登山道はちょっと道が消えかかっているように見えるところもあるが、迷いはしないだろう。
( 睦月)さんより
周山城から西へ約3~4km先、八幡宮の裏山に宇津氏居城、宇津城跡がある。その宇津氏を滅ぼした明智光秀は、周の武王にちなんでこの山を周山と命名したそう。
( サイモン)さんより
明智光秀築城の周山城は、周山街道にあり総石垣の山城で築城理由が謎とされている。周山城の規模は大きく曲輪の数が44あり随所に虎口跡も見られる。中でも西曲輪側面には壮大な石垣が今も色濃く残るほか、西側にはその守りを強化するかのように周山城土の城がある。
( ソフトクリーム)さんより
登って景色を見渡すと、どうしてここに総石垣の城を築いたのかピンとこないが、周山街道の中間地点に築かれており、眼下に物資が運搬できそうな川が流れている。西と東に城が分かれているが、主郭のある東の城の西側を守るため、西に土の城を設けたのかもしれない。総石垣の城だった感はその痕跡から充分に味わえる。登城の際は縄張図必須ということで。
( 明智光秀)さんより