写真:岡 泰行
園部城の歴史と見どころ
園部城(そのべじょう)は日本で一番最後に造られた城だ。明治2年(1869)明治維新後のことである。それまでは「城」ではなく「陣屋」という扱いで、園部陣屋という名称だった。
元和5年(1619)、小出吉親が園部に入封し園部藩が誕生する。小出氏は、吉親の祖父、秀政が秀吉と同じ尾張国中村の出で秀吉の母、なかの妹を娶っている。いわば豊臣一族で、吉親が生まれた当時は岸和田城主となっていた。吉親の父、吉政は龍野城主となり、その後、加増を経て出石城主となった。小出氏は秀吉の死後、関ヶ原の戦いを迎え生き残りのため、東軍と西軍に一族を分けて挑み、戦後、その活躍により一族は処分を受けることは無かったという。吉親はその後、上野国で2千石の知行を得るが、父、吉政の死去により、兄の吉英が岸和田藩主、吉親が出石藩主となる。この時、上野国の2千石と出石と合わせ、2万7千石を有する大名となった。時は下り、大坂の陣後の元和4年(1618)、大坂城を中心に譜代大名を配置し、軍事拠点として畿内を固める大名配置替えが行われた。この時、小出吉親は園部に入部する。
元和5年(1619)、その居館として園部陣屋の造築が開始され、2年後の元和7年(1621)に完成している。園部藩の禄高が2万9千石のため幕府の制度上、城を構えることは許されず陣屋となった。南北約650m、東西約400m、二重の堀、狭間のある土塀など城と呼べる規模を有しており、陣屋としては特例だったに違いない。園部藩歴代藩主は城への昇格の思いが潰えず、幕府への交渉を続け幕末の慶応3年(1867)に内諾を得ることに成功する。ところがその直後に大政奉還がなされてしまう。新政府側だった小出藩は築城願書で「帝都御守護」のためとして新政府に交渉し、維新後の明治元年、明治政府から築城の許可を得たのである。2年で櫓門や櫓を新たに築いた。当時、京都に近いこの地は不安定な情勢の京都を守る必要性があった。
こうして250年、十代に渡り藩主を務めた小出氏は念願の城持ち大名となったが、明治4年(1781)には廃藩置県となり終焉を迎えた。園部城築城から4年のことであった。櫓や櫓門など建物と敷地は明治5年(1872)に入札で払い下げられ、その後、中心部は学校用地となり、台地北端には小麦山にあった三層櫓を絵図をもとに外観を模した南丹市国際交流会館が建設され、公園として整備され現在に至っている。歴代藩主が城を求め続けた思いは、今も引き継がれ、園部中学校や園部文化会館の外観が城のデザインを取り入れ設計されている。
園部城の構造と特徴
園部城は、園部町の西南にある小向山(標高173.8m)の東側の台地にある園部高校の敷地がその中心部だ。北に園部川、西に半田川を取り入れ、南と東には中堀を設けて守りを固めていた。小向山を詰の丸として層塔型の三層の天守相当の櫓を建て、4基の櫓と3基の櫓門を築造し守りをより堅固なものとした。現在、中心部で見られる巽櫓(二重櫓)、櫓門、門番所、安楽寺移築の太鼓櫓は、この時築かれたものだ。
現存建築物について、建築学者の三浦正幸氏によると、櫓は軒が長く寺社建築に近く、また、櫓門は二階内部が低く格子窓から弓や鉄砲を自由に扱えず敵を迎え撃つのは困難な高さであること等、その構造から町屋的な趣が見られ、築造当時、工匠や指導した園部藩の役人が城の建築を十分には心得ていなかっためだろうとしている。
巽櫓
巽櫓は現存する櫓で、慶應4年(1868)園部藩主小出英尚修復竣工、昭和50年(1975)に京都府教育委員会が石垣を新修した(それを示す末裔の小出英忠さんの書が巽櫓内にある)。櫓1階に見られる出窓は石垣より出ていないことから飾りとされている。また東面の出窓は改築されその中央に出入口が設けられている。
巽櫓1階内部。釿(ちょうな)がけされた柱などの部材が見られる。改編され分かりずらいが、内陣の周囲は武者走りが設けられている。写真右手の梁中央には本来、柱がもう1本あったが、東側にも(写真右手)入口を造ってしまったため、撤去されている。
二重櫓である巽櫓内部には園部城の瓦などが展示されている。2階には天井がある。竿縁天井(さおぶちてんじょう)といって、格式の高い部屋や居住性が求められた時に付けられるものだ。竿縁は建物正面に向かって平行に設置されるのが自然だが、なぜかそうはなっておらず南北方向に付けられている。また、壁は蟻壁(ありかべ)風の処理が見られる。画面左手中央の壁に窓が無いのは、外側に千鳥破風が取り付けられているためだ。
巽櫓の梁に見られる「二階○ 尺下水 ○○」墨書き。「水」というのは軒先のことで「尺下」は高さが一寸下がったところにという意味だと考えられる。ほか2カ所の梁にも墨書きが見られる(墨書き番付は、建造時にどの部材をどこに使用するかを記載したもの)。
櫓門
櫓門正面格子窓の両脇には大砲狭間が設けられている。側面に2つ、背面に1つの計7つの狭間がある。大砲狭間の設置は戊辰戦争の経験を行かしたものではないかと推測されているが、二階の天井高が低いため実際に使用できるスペースは無いらしい。
櫓門や巽櫓には、鬼瓦や軒丸瓦に小出氏の家紋が見られる(写真は櫓門の鬼瓦。鯱の尾鰭が一部欠損している)。
番所
園部城番所。窓には監視目的の与力窓、壁は下見板張りが施されている。また、屋根は「うねり」とよばれる趣向を凝らした形となっている。かつて、園部高校茶道部が茶室として利用していたこともあり、反対側には躙口(にじりぐち)を設けた改築が見られる。
堀の痕跡
堀の痕跡は、南丹市立文化博物館前のプールと西にある中堀跡(写真上)と、公園内の内掘跡の窪み(写真下)がある。また、背後の小麦山に登ってみたが三重櫓の痕跡は確認できなかった。余談ながら、小麦山は通称「マリオ山」とも呼ばれ、ドンキーコングやスーパーマリオを生んだ山として知られている。産みの親は任天堂の宮本茂氏。園部のご出身で幼少期に小麦山でキノコや亀など見てよく遊び、着想を得たらしい。
土塁と堀跡
京都家庭裁判所園部支部の東側に残る園部城の土塁と切岸。右手の道路が堀跡だ。
園部藩小出氏歴代藩主の墓所は、園部城が見渡せる戸倉山(園部町小山西町)の山腹にある。もとは初代、吉親の隠居城だったということもあり、土塁や石垣、横堀といった防御施設を合わせ持っている(歴代藩主の墓所の見学は佛教大学園部キャンパスにあり要許可申請・動画はこちらで公開されている)。櫓門と巽櫓は外観は道路上から見られる。園部城見学は、校内からの見学は平日8:30〜17:00に府立園部高校の受付に申し出ると良い。
参考文献:
『日本城郭大系11』(新人物往来社)・『園部藩の歴史と文化』(南丹市教育委員会)・『初代藩主小出吉親』(南丹市教育委員会)
園部中学校や園部文化会館、マリオ山(小麦山)について園部に文化観光協会を創設された小林康夫氏にご教示いただいた。記して御礼申し上げます。
園部城の資料
園部城パンフレットには園部城復元図が掲載されているのでGETしておくと良い。園部城模擬天守横の南丹市立文化博物館へどうぞ。南丹市教育委員会発行の『園部藩の歴史と文化』『初代藩主小出吉親』ほか、南丹市の城館分布図や園部城の絵図などがある。そのほか刊行物も手に入る。
園部城の撮影方法
園部城の城門と櫓は東向きのため、午前中の撮影が良い。
園部城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る園部城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。園部城の関連史跡
八木城近くの安楽寺には園部城の太鼓櫓が移築現存している。城址に現存する巽櫓とひさしの長さやそのバランスが似ているのが分かる。内部には丹波亀山城にあったと伝わる太鼓があるらしい(京都府南丹市八木町北屋賀国府26)。
有名な城では、丹波三大山城の八木城が近い。丹波三大山城とは、八上城、八木城、黒井城の3城を指す。または、光秀の丹波亀山城へ。
園部城のおすすめ旅グルメ
現地では園部の名店「海鮮食堂 うを亀」が良い。もとは100年の歴史のある割烹で、魚料理で知られている。味に妥協がなく海鮮丼や厳選した魚介類を活かした、つけ麺や魚介ラーメンも人気だ。筆者は何度か園部に通ううち、天ぷら定食をいただいたが、これが絶品だった。割烹だったと聞いて納得する完成度で、かつて月山富田城の麓にあった「藍」の天丼を彷彿とさせる。「海鮮食堂 うを亀」へは園部城址から道すがら、京都家庭裁判所園部支部前の土塁や堀跡、お城風の園部文化会館を見て、徒歩で向かうのが良い。園部文化観光協会(観光案内所)の向かいにある。(TEL:0771-63-0316 京都府南丹市園部町宮町西36-1)。
もし八木城とセットなら、JR八木駅の東すぐ「お食事処まるや食堂」へ。老夫妻が営む昔ながらの昭和レトロな食堂で、内藤如安(ジョアン)というキリシタン武将にちなんだ、ジョアンオムライスをどうぞ(まるや食堂:京都府南丹市八木町八木東久保36 TEL:0771-42-2020 無料駐車場有り)。
または『京都丹波日本料理 津多屋』の園部城弁当(天守型のお弁当箱で三段弁当)を平日限定ランチでど〜ぞ(前日までの要予約・京都府 南丹市園部町若松町62-7 TEL:0771-62-0508)。余談ながら、京都府南丹市のふるさと納税では、「日本最後の幻の城 園部城弁当箱・ちりめん山椒セット(髙島屋選定品)」がある。
園部城のアクセス・所在地
所在地
住所:京都府南丹市園部町小桜町 [MAP] 県別一覧[京都府]
電話:0771-68-0050(南丹市観光交流室)
鉄道利用
JR嵯峨野線、園部駅下車、西口より京阪京都交通バス「園部高校前」降車すぐ。または、ぐるりんバス「図書館前」降車すぐ。
マイカー利用
国道478号線、園部ICから南へ5分(2.3km)、無料駐車場(106台)有り。
園部城の大部分は園部公園になっています。あとの残りの敷地は園部高校が使用しています。櫓門は高校の正門となっています。
( 佐々木健太)さんより
園部城の天守を模した国際交流会館というのがあります。中には多少の資料展示がありました。その間にある中堀はプールとなってました。
( 城好きの匿名希望)さんより
現在の南丹市のエリアは、園部藩の領地がほぼそのままっぽくてちょっと面白い。
( 丹波大納言)さんより