大阪市内に残る残念石
残念石(残石)は、大阪市・西宮市・芦屋市ともに100%把握されることはなく、その全体像はつかめていません。すでに自治体が調査済みの残念石から、そうでないもの、過去に発見されていたが今は無いもの、または非公開など情報も新旧まばら。中にはフィールドワークで3日間歩いて1ヶ所だけ見つかるという残石もありました。そこで、ひとまずエリアごとに2023年現在の一覧を手元で作成していこうかと思います。まずは大阪市の市街地から。写真は少しでも自身の目で刻印などが見られるようできるだけ同じ場所を2〜3度訪れて現状を撮影していきます。各地方、個人宅内にある残石は省きます。
城南地区の残石
広小路公園
城南地区の残石。長さ約230cm。堀尾忠晴の分銅紋の刻印が小口(写真左面)に、右面には複数の矢穴列が見られる。『特別展 天下の城下町 大坂と江戸』(大阪歴史博物館2013)によると、各大名が武家屋敷で石を管理保存しておりこれを「御抱石」と呼び、後に改易されると石は献上され「上り石」と呼んでいたという。この石は意図して残された「上り石」で上堺町あたりにあったものではないかと思われるが定かなことは分からない。
内久宝寺町のマンション
城南地区の残石。内久宝寺町のマンションエントランスに設置されている。丹波福知山、稲葉紀通の刻印「菱に三」が側面にひとつ、上面にひとつ確認できる。紀伊国町にあった稲葉家の「上り石」ではないかと思われるが定かなことは分からない。マンション建設時に出土。
同所にある残石。写真左は上面に矢穴列がある。矢穴の長さは約10cmでやや小ぶりだ。写真右は上面に現代のDタイプの矢穴列痕があるが、側面にAタイプらしき矢穴列痕が確認できる。
玉造稲荷神社の残石
玉造稲荷神社の残石。写真左は毛利家刻印「一に星ひとつ」。毛利家の家紋は一に星3つでそれを簡略化させたと覚えておくと良い。写真右はAタイプ矢穴列痕がある割石。余談ながら玉造稲荷神社は利休屋敷跡と伝わる。
石碑として残る残念石
木村長門守重成表忠碑
木村長門守重成表忠碑(中之島)。高さ415cmというそのサイズから角石とみられている。矢穴列痕は3列ある。元は安治川に沈んでいた石で、豊国神社境内に石碑として建立され、神社が大阪城に移転後、中之島に石碑のみ残された。とにかく巨大。
贈従五位安井道頓安井道ト紀功碑
贈従五位安井道頓安井道ト紀功碑(島之内2丁目)。高さ381cmというそのサイズから、また、矢穴列・矢穴列痕が縦横無尽に6列あることから作業途中で角石利用に変えたと考えられている。安井久兵衛の屋敷跡に建てられてた。
石の上部では矢穴を掘りかけた途中経過が見られる。
安井道頓は安土桃山時代の土木家。元禄年間に堀川を川浚いし引き揚げた石を使用しているらしい。『特別展 天下の城下町 大坂と江戸』(大阪歴史博物館2013)によると、徳川大坂城築城時には、大名が直接、安井家の協力を求めていたらしく、例えば大坂城近辺にあった安井家の田地屋敷を石置場として加賀藩前田家に賃貸したり、石の調達も安井家を介して行っていたりした。
河村瑞賢紀功碑
河村瑞賢紀功碑(西区安治川)。高さ351cm、矢穴列痕は1列、大正4年設置。
サムハラ神社
サムハラ神社(西区立売堀)。右手にある巨大な石碑が残石。この神社がもともとあった中之島で残石を石碑にし、その後、神社が現在地に移転し、石碑も合わせて移転した。高さ246cm、矢穴列痕は5列。台座の石にも矢穴列痕がある。この神社はひっきりなしに参拝者が訪れ、しめ縄が巻かれた残石を触り、手を合わせる熱心な参拝者が多い。
大地震両川口津浪記
大地震両川口津浪記(浪速区幸町)。残石と伝わるが矢穴などの痕跡がなく、確かなことが分からない。黒く汚れてみえるのは、建立された安政2年(1855)から毎年、文字が墨入れされているため。それくらい石碑は「津波には備えを」と伝えてきた。
八劔神社の残石
八劔神社(東区鴫野)の残石。鴫野(しぎの)は水運を利用した集石場で、左から、一柳直盛・京極高知・京極忠高担当丁場で見られる刻印、堀尾家の分銅紋、有馬豊氏の釘抜紋、三つ引紋と轡紋は松平忠直の丁場に多い刻印(現地案内板要約)。この場所は大坂冬の陣で上杉景勝陣跡でもある。刻印は見やすいよう画像処理を施した。
中之島の残念石
中之島の残念石(残石)。おそらく中之島に残っていた石を公園整備時に天神橋下に集めたのではないかと思われる。案内板は設置されてない。
中之島の残石。写真左は右面の矢穴列痕の下におそらくは京極丹後守の「丹」の刻印、上面にも刻印が見られる。写真右は矢穴痕が確認できる。
刻印や矢穴痕などの痕跡が確認できたのがこの6石。最後の写真は、左側面に矢穴痕、右側面に刻印が見られる。
安治川の残念石
建物に埋め込まれた残念石(西区川口)高さ390cmでその大きさから角石と考えられている。倉庫建設時に発掘されたが移動できず、そのまま倉庫壁にしたと伝わる(推定50t)。
伝法の残念石
大阪市内で唯一の漁港「伝法漁港」の公園にある大坂城残念石(通称「沈石」のベンチ・此花区伝法)。上部は座りやすいようセメントで固められている。各々長編は2m弱。刻印もあるが内容は解明されていない。
毛馬の残念石
大阪市北区長柄の淀川沿いに、毛馬の残念石がある。『大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書I』(2020大阪府教育委員会)によると、毛馬の残念石はサイズや形の不揃い感が徳川大坂城向きでなく、伏見城から大坂城への転用石ではないかと考えられている。矢穴サイズはものによっては幅がなく豊臣期のものがあるという。報告書によると、毛馬は伏見城から大坂城への水運で流路の変更点であったため、落石が多かったのではとしている。残石の数は、現在も持ち込まれ過去の調査時より増えている記載が報告書にあるが、そこからさらに増えている気がする。
矢穴痕が確認できる。石によっては九曜紋の刻印があるらしいが、何度足を運んでも見えてこない。最後の写真2枚は、記号の刻印が側面に見られる。
大阪国際がんセンター
大阪国際がんセンターエントランスにある残石全景。建設時の発掘調査で出土し「刻印の庭」として整備されている。徳川大坂城築城時に残念ながら使用されなかった石。
左写真は、右側に矢穴列、手前面に「卍」「中」の刻印がある。右写真は、上面「△に三」は、豊後岡藩の中川家内膳正久盛、側面「○に一」は、肥後島原藩の松倉豊後守重政の刻印。
大阪重粒子線センター
大阪重粒子線センターにある残石。建設時の発掘調査で出土した。徳川大坂城築城に不要となり破棄された石で、松浦肥前守隆信と細川越中守忠興・忠利の刻印がある。
通天閣前の残念石
通天閣前のスギ薬局前にある残念石(浪速区恵美須東)。小豆島で切り出された石とされるが、石のサイズ、矢穴痕ともに小さく、大坂城築城期のものと考えにくく、小豆島の石と表現する方が良い。また、ほかに小豆島の石を利用した大阪市内の関連スポットは、梅田の地下街にもある。
太融寺の石
残念石ではないが、大阪市内に移設された戦国時代ゆかりの石なので合わせて紹介しておく。太融寺(大阪市北区太融寺町)の境内にある。
写真左が、太融寺の先代の老院主さんのお話によると、昭和63年に追手門学院から豊臣期の石として寄贈された大坂城の石材。矢穴痕などはないが淀殿の墓の石碑となっている。写真右は、小谷城の石。太融寺は茶々が育った小谷城(滋賀県)のある河北町と親交があり、碑石として河北町から太融寺に寄贈されたものだ。
(文・写真=岡 泰行)
大坂城残念石Googleマップ「大阪市編」
参考文献:
『特別展 天下の城下町 大坂と江戸』(大阪歴史博物館2013)
『大阪府水中遺跡関連文化財調査報告書I』(2020大阪府教育委員会)
『大阪市 大坂城跡7 重粒子線がん治療施設整備運営事業に伴う大坂城跡発掘調査報告書』(2016年 公益財団法人 大阪府文化財センター調査報告書 第269集)