大阪城残念石のリスト

室津の残念石

室津

室津という寄港地

兵庫県たつの市に「室津」という港町があります。三方を山に囲まれた天然の良港で、大坂から兵庫にまたがる播磨灘の主要な5つの港のひとつです。奈良時代から1,300年の歴史を持ち、朝鮮通信使をはじめ、西国大名の参勤交代の寄港地として、また、瀬戸内海を行き来する商業船の寄港地として大坂と各地を結んでいました。北海道から大坂を結ぶ北前船も本州をぐるりと周り、この港に寄港していました。そのため、港には五百石船、千石船が着岸できる水深があったといわれています。

室津の湊

室津の港町は、かつては「室津千軒」といわれたそうです。「千軒」とは城下町では使われない呼称で、地方を代表する商業地を指します。港町の中心の通り沿いには、西国大名が宿泊する本陣がありました。

本陣というのは、一宿一軒という原則がありますが、ここ室津を歩くと、本陣紀伊国屋跡、本陣肥後屋跡など複数の石碑が目に飛び込んできます。記録では最大6件の本陣が営まれ、それぞれにおおよそ泊まる大名が決まっていました。その存在は千鳥破風を設けた本陣もあり、室津の景観を決定付けるほど際立っていたのではないかと想像されます。

本陣肥後屋跡の石碑

現在、室津には本陣こそ現存していませんが、江戸時代のおもかげを色濃く残す商家が残っています。姫路藩御用達の海産物問屋の豪商「魚屋」(室津民族館・県指定文化財)と、「嶋屋」(室津海駅館・市指定文化財)で、かつての室津の繁栄というものを知ることができる史料が展示されています。

魚屋たつの市立室津民俗館
魚屋からメインストリート
「魚屋」とその2階、腰掛け縁からみたメインストリート

明治になると蒸気船が登場し、風待ちの必要がなくなったことからこの港町は衰退していきます。竹久夢二、司馬遼太郎などが室津を訪れ、さびれた佇まいを描いています。山から海に落ちる狭い土地に所狭しと並ぶ町屋に、田舎に佇む漁港というより、主街道沿いの宿場町のような威厳が漂い、かつての栄華や歴史というものが、そういうところに宿るのかもしれないと、思えました。

大坂城の残念石

絵図によると港町の一角に姫路藩の「湊口番所」があったことが分かります。湾の入り口に設けた番所で石垣を組み施設を設けていました。番所跡には、大坂城の残念石(残石)が2石置かれています。

室津の残念石
室津の残念石
石は花崗岩で、六甲のピンク系花崗岩ではなく青みを帯びています。小口は125〜145cm四方、左は390cm×幅150cm、右は長さ400cm×幅153cmとかなり巨大で角石利用が想定されるサイズです。

室津の残念石に見られる矢穴列
石の表面はすだれ仕上げがなされ、一部でAタイプの矢穴列が見られる

現地解説板によると、西国大名が石を運ぶ途中に「室の泊(むろのとまり)」で海中に落としたもので、約400年間、「灯籠の端(とうろうのはな)」とよばれる船着き場近くの海底に沈んでいたとのこと。昭和47年(1972)、室津漁港修築工事の際に引き揚げられ、湊口番所跡で屋外展示されています。また、解説板では豊臣期大坂城のものとありますが、石の加工技術や矢穴は徳川大坂城築城期のものです。

室津には石丁場がありません。よって、北九州や瀬戸内の島々から運ばれたものと推測され、潮待ちで室津に寄った際に事故で落ちたものと思われます。

湊口番所の石垣
かつては海に面していた湊口番所の石垣

余談ながら、岬の山頂付近には遠見番所が設けられていました。室山城(室津城)があった場所で、山頂から沖合まで見通しが良かったことが分かります(現在は宅地と木々に覆われ見通しが良くありません)。

室山城は、浦上氏の居城でしたが3月3日の雛祭りに赤松氏に攻められ落城します。その日、隣国より花嫁を迎えた婚礼の日でもあったようで花嫁も戦い討ち死をするというストーリーが伝わります。それを哀れみ、室津地区では3月3日に雛祭りは行わず、旧暦8月1日の八朔(はっさく)に真夏の雛祭りが行われています。

令和元年(2019)、室津は「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間―北前船寄港地・船主集落―」として日本遺産に認定されています。

(文・写真=岡 泰行)

大坂城残念石Googleマップ「室津編」

参考文献:
『室津の町並み』(1999御津町教育委員会)
『魚屋(室津民族館)』展示パネル
『たつの市立室津民俗館パンフレット』(兵庫県たつの市)

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