大阪城残念石のリスト

大東市・東大阪市内の残念石

大坂城の残念石を探すため大阪平野の東端、東高野街道沿いにある專應寺(せんのうじ)を訪れました。飯盛山から石を切り出すため京極高知が陣屋を設けた場所です。野崎の浜から、深野池(ふこのいけ)、寝屋川(旧大和川)を使い、水路で大坂城まで石を運搬していました。

專應寺は飯盛山の斜面にあり周囲の道は勾配がきつく山肌が迫ります。すぐ直上の飯盛山中が石丁場跡です。專應寺のご住職にお話を伺うと、この寺の太子堂まわりの石垣は京極高知によってその御礼として積まれ、京極家の刻印石や矢穴痕のある割石が残り、境内には「寄附 京極丹後守」と彫られた寄進の手水鉢が伝わります。專應寺は、JR片町線、野崎駅から西へ徒歩12分(800m)。

京極高知が陣屋を設けた專應寺

專應寺
專應寺(せんのうじ)は大東市野崎にある。鎌倉時代後期の創建とされ、現在の本堂は、寛文10年(1670)、本願寺から聖徳太子絵像と七高僧絵図の授与をきっかけに建立された。

專應寺の京極高知の刻印
左写真は、專應寺石垣に見られる京極丹後守高知の「丹」の刻印。

專應寺の手水鉢
左写真は「寄附 京極丹後守」と彫られた專應寺境内に残る手水鉢。右写真は山門石垣に見られる矢穴痕がある割石。

飯盛山の残念石

飯盛山の大坂城残石
飯盛山の大坂城残石
飯盛山の残念石(残石)は、野崎観音から登るルートで野崎城を経由し、南尾根コースを歩くと登山道上に2石が見られる。ここが石丁場だった。石から麓へ向けて直線を伸ばすと途中、專應寺がある。飯盛山城に行く機会があれば見ておくと良い。

東大阪市善根寺町に残る巨石

善根寺町に残る残石
專應寺から2kmほど南下、東大阪市善根寺町に残る周囲約24m、高さ3.5mの巨石がある(東大阪市善根寺町6丁目6)。上部に刻印が残るらしいが、残念ながら梯子が必要な高さで、その周辺の刻印も草木で見えない。何度か訪れるうち、草木が刈られている時があったが、上部の草木は高所のため刈られることはなく、残念ながら矢穴列や刻印を見ることは叶っていないが、東面(写真右面)に、境界を示す文字刻印が見られる(次写真)。

『石切場跡発掘調査報告書ー徳川大坂城再築工事関連の石切場跡調査ー』(2012大東市教育委員会)によると、石の上部に矢穴列、刻印は南東面に長州藩毛利家、加賀藩前田家、南西面には津山藩森家のものがある。この巨石は残石のひとつで、もともとこの場所にあったとされており、麓から各石切場へ向かう入口にあたる場所にあたるため、作業員の目印的な存在だったとしている。ひとつの石に複数の家の刻印がある不思議は解明されていないが、石そのものが標識的な意味あいならば納得できる気もした。

善根寺町に残る残石
巨石の東面には「東足立」「西社地」と刻まれている。これは境界石でこれより東は足立氏、西は春日神社の土地という意味らしい。足立氏とは、石奉行のことで巨石から西へ240mのところに足立氏の屋敷があり、今も水堀や石垣が残っている。足立又助昌成は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、大坂城築城にあたって石奉行を務め周辺の山々から豊臣大坂城築城用の石材を大量に切り出した人物で、尾張からこの地に移り住んだ。その子仁兵衛宗佐も父の死後、普請奉行を命じられ徳川大坂城築城用の石材を切り出した。大坂城石丁場の境界石は、ここ東大阪市と尼崎市神戸市で確認できた。

春日神社に残る石と石奉行を務めた足立氏ゆかりの鳥居
左写真は、春日神社の山に残る矢穴列が5列ある石。大坂城築城期の石丁場跡に残石であることは間違いないが、矢穴は長さ7cmほどの小ぶりなもので微妙なサイズ感。大坂城築城期の矢穴ではなさそうだ。右写真は、足立氏の氏族、足立十兵衞尉正之が寛文11年(1671)に、春日神社の鳥居を建立した。令和2年の倒木で損壊し、その状態で保存されている。足立氏の屋敷背後の山が春日神社であることから密接に関係していたのではないかと想像できる(東大阪市善根寺町6丁目7)。

足立氏屋敷跡の水堀跡
大坂城築城の石奉行となった足立氏の屋敷跡の水堀跡。東西110m、南北85mの屋敷跡で周囲を掘で守っていた(東大阪市善根寺町6丁目3)。

深北緑地の残石

深北緑地
深北緑地(ふかきたりょくち)に足を運んだ。残石上部に京極家の家紋刻印が見られる。深北緑地は遊水地として整備された公園で、河川工事で掘り出された残念石が屋外展示されている。

京極家の刻印
石の上部に、京極家の刻印が見られる。

矢穴列がある大坂城残石
Aタイプの矢穴列がある残石。

広い公園で探すのに難儀したが、要するに残念石の展示エリアは2箇所ある(解説板はうち1カ所のみ)。長く水中にあったため角が丸くなっている石が多い。石は野崎浜から旧大和川、深野池(ふこのいけ・中世から江戸時代まであった南北2里東西1里の広さの池)が集積地となり大坂城まで運ばれていた。

深北緑地の大坂城残石
この公園内の深野池は人口の池で、中世から江戸時代にこの地に存在した「深野池(ふこのいけ)」から名前を採っている。遊水地だけあって、大雨の後は水浸しになり数日間、公園が閉鎖されるので、訪れる際は事前に要チェック。

(文・写真=岡 泰行)

大坂城残念石Googleマップ「大東市・東大阪市編」

参考文献:
『野崎専応寺 ─大東真宗の歴史と文化─』(2014大東市立歴史民俗資料館)
『石切場跡発掘調査報告書ー徳川大坂城再築工事関連の石切場跡調査ー』(2012大東市教育委員会)
足立氏屋敷跡現地解説板(大東市教育委員会)

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