大阪城残念石のリスト

芦屋市の残念石と石丁場

大坂城の残念石が最も多いエリア、芦屋市。東六甲採石場は「刻印群」で分類される6つのエリアに分かれています。このうち、芦屋市は「奥山刻印群」「城山刻印群」「岩ヶ平刻印群」の3エリアで、ほかに海側に船に乗せるための集石場として「西蔵遺跡」「宮川河床遺跡」「呉川遺跡」の3遺跡あります。芦屋市教育委員会によると、発見された各大名の刻印石の分布からその石が運ばれたルートが分かるとし、それぞれの刻印群から、夙川、宮川、芦屋川の谷地形を利用して石が陸路運ばれたと考えられています。

芦屋市が公式に発行する残念石に関する媒体は、採石開始から400年周年記念イベントで作成した『広報あしや』2020年7月号、『徳川大坂城東六甲採石場』(2022芦屋市教育委員会 社会教育部 生涯学習課)、そのほか『大阪城石垣のふるさとを歩く』(2007芦屋市教育委員会)があります。これに加えWebサイト『徳川大坂城東六甲採石場』も充実しており、オンライン記念講演会の動画配信や13箇所の見学できる石材を掲載しています。

今回はこの13箇所に加え、石丁場跡である城山刻印群と奥山刻印群、岩ヶ平刻印群(高級住宅街の六麓荘町付近)で点在する道路上から確認できた残石と、西宮市甲山刻印群である甲山森林公園から運ばれた残念石が集まる2ヶ所を訪れます。

なお、芦屋市の発掘調査報告書は、屈指の調査量で、岩ヶ平刻印群13冊、奥山刻印群3冊、城山刻印群1冊とあり、また、呉川遺跡などの平地部は3冊が刊行されています。本ページの各写真のキャプションは主に芦屋市教育委員会の資料をもとに作成しています。2023年現在で確認できた残念石(残石)を六甲山から海に向かって南下するかたちで紹介します。

奥山刻印群

奥山刻印群
東六甲の石丁場のひとつ「奥山刻印群」は、ゴロゴロ岳から南に延びる奥山の尾根上にあり、H地区、A地区、B地区に矢穴石や刻印石など当時の痕跡が数多く見られる。奥山五枚岩(写真)をはじめ、石丁場の原風景が見られると言っていい。整備された石丁場ではないので訪れる際は充分な準備と注意が必要だ。越前福井藩の松平忠直、長州藩の毛利秀就、肥前大村藩の大村純頼・純信の石丁場跡。奥山刻印群については別途ページを設ける予定だ。

城山刻印群

「城山刻印群」は、神戸市と芦屋市にまたがっている。H地区が神戸市の荒地山の西側斜面にあり、芦屋市は鷲尾山に残石が確認できる。日向佐土原藩の島津忠興、豊後臼杵藩の稲葉典通、稲葉一通、丹波福知山藩の稲葉紀通の石丁場跡だ。

城山刻印群馬の背
城山刻印群の馬の背付近の様子
鷲尾山の馬の背付近に残る矢穴石や割石

城山刻印群の島津家刻印石
鷲尾山の山頂付近に残る日向佐土原藩、島津家の刻印石

城山刻印群の城山登山口付近に「井」の刻印
鷲尾山南部の登山口に残る「井」の刻印石

この4点の写真はいずれも登山道沿いから見られる。いずれも詳しい場所は、芦屋市の自治体ページ『城山(鷹尾山)登山道の石材(城山刻印群)』で見学マップが公開されている。鷲尾山はその尾根の突端を「城山」といい、鷹尾城(山城)がある。これがネーミングの由来だ。

なお、城山刻印群のH地区については神戸市の残念石ページで紹介している。

岩ヶ平刻印群

岩ヶ平刻印群の石丁場跡は、現在の岩園町や六麓荘町付近で、すでに市街地となっている。それゆえ石丁場の原風景というのは残っていないが、出土したその残念石(残石)を町内で見ることができる。宅地造成前には発掘調査が行われおり、毛利家の石丁場跡などが明らかになっている。また、掘立柱の建物跡や鍛冶炉跡が発掘調査で発見されており、石丁場で使用する鉄製の道具、ノミやクサビのメンテナンスを行っていたであろうと考えられている。岩ヶ平刻印群では、出雲松江藩の堀尾忠晴、若狭小浜藩の京極忠高、因幡鳥取藩の池田光政、肥前唐津藩の寺澤廣高、肥後熊本藩の加藤忠廣、長州藩の毛利秀就などの大名の石工集団が採石を行っていた。

六麓荘浄水場

六麓荘浄水場の割石
六麓荘浄水場の石材(割石4石)。肥前唐津藩寺澤廣高の石丁場から出土したものを屋外展示している。

六麓荘町

六麓荘町に残る刻印石
六麓荘町に残る刻印石。因伯鳥取藩の池田光政の刻印石と、「伊木三十郎二しノミや内いし者」の文字刻印がある。伊木三十郎は池田家の筆頭家老。この粋な展示は道路上から見られる。

現芦屋大学の石垣に見られる割石と刻印石
芦屋大学(旧国際ホテル)の石垣に使用された割石(写真上の案内板直下)。その下にある三角形の石材には、若狭小浜藩京極忠高の「○に小」刻印石がある。

六麓荘に見られる割石と刻印石
六麓荘町内の住宅石垣に見られる矢穴痕のある割石(写真右の石垣隅部)。中央下の大きな石材には若狭小浜藩京極忠高の刻印「○に小」が確認できる。

芦屋市霊園

芦屋市霊園の発掘調査で出土した割石
芦屋市霊園の発掘調査で出土した割石12石。芦屋市霊園の発掘調査で出土した割石12石が、霊園の一角に屋外展示されている。しばらくこの一角は立入禁止だったが、2024年1月26日より一般公開を再開している。

芦屋市霊園の毛利家刻印石
芦屋市霊園の刻印石。長さ160cm、長州藩毛利家の「一に星(○)」と半円の刻印がある。毛利氏の家紋は、星(○)3つだがこれを簡略化したのが星ひとつだ。

芦屋市霊園の園路に使用された割石
芦屋市霊園の毛利氏石丁場跡の谷筋に至る園路には、一部で矢穴列痕がある割石が使用されている。

市立芦屋病院

市立芦屋病院敷地内に残る巨石
市立芦屋病院敷地内に残る長さ約6mの巨石。石の中央左にひときわ大きい長州藩毛利家「一に星(○)」刻印が見られる(毛利家刻印では最大サイズか)。毛利家の石丁場は、奥山(奥山刻印群K地区)から、南東に下る尾根筋一帯を独占しており、途中、現芦屋市霊園があり、市立芦屋病院のすぐ下あたりまでがその担当区域だった。

六麓荘緑地

六麓荘緑地の割石
六麓荘緑地の割石。この地にあった長州藩毛利家の石丁場の発掘調査で出土した。

六麓荘緑地の割石と石碑
写真左は六麓荘緑地の割石。長州藩毛利家の「一に星(○)」の刻印がある。写真右は六麓荘の石碑で矢穴列痕がある。

岩園天神社

岩園天神社の役小角像に見られる矢穴列痕
岩園天神社の役小角像に矢穴列痕がある割石が使われている。役小角像の背面にまわると確認できる(写真右)。余談ながら、役小角像は安政5年(1858)に古墳の上に建てられている。

岩園第二児童遊園

岩園第二児童遊園の矢穴石
岩園第二児童遊園には、刻印石2石、矢穴石2石、割石6石の移設展示がある。

岩園第二児童遊園の刻印石
岩園第二児童遊園の刻印石。石上部に見られる鳥のような刻印は、大坂城ではその変形バリエーションが数多く発見されている。

岩園町

岩園町に見られる刻印石
写真左は、岩園町の石祠の屋根に転用された刻印石。「○に小」は小浜藩京極忠高の刻印と思われる。写真右は更地になった宅地の門脇の石で中央下に先と同じ刻印がある。

芦屋市内に点在する残念石

朝日ヶ丘集会所

朝日ヶ丘集会所の刻印石
朝日ヶ丘集会所に呉川町から移設の刻印石と矢穴痕が残る割石。宮川に降ろされた石材と考られている。「△に一」が見られるが越前福井の松平忠直の刻印と思われる。

朝日ヶ丘集会所の立体マップ
朝日ヶ丘集会所は、その屋外に六甲山から海までを含む巨大な立体マップ「芦屋市遺跡触覚模型」(1/300の縮尺)があり、六甲山にある奥山刻印群と城山刻印群に、発見された刻印がマークされ、その分布が視覚的に理解できて面白い。

ヨドコウ迎賓館

ヨドコウ迎賓館の敷地に矢穴石が残る。通常の見学ルート外で、2023年現在、このエリアは工事中でブルーシートがかけられ見ることができない。

三条八幡神社

三条八幡神社の手水鉢
三条八幡神社の手水鉢には刻印がある。「○に十」は日向佐土原藩、島津忠興のもの。

松ノ内花壇

松ノ内花壇の割石
松ノ内花壇には西山町にあった矢穴列痕のある割石が展示されている。

芦屋市民センター

芦屋市民センターの刻印石
芦屋市民センターには、西山町にあった刻印のある矢穴石が展示されている。石下部に見られる刻印「○に十」は日向佐土原藩、島津忠興のもの。

若宮まちかどひろば

若宮まちかどひろばの刻印石
若宮まちかどひろばには、若狭小浜藩京極忠高の刻印石や因幡鳥取藩の池田光政などの刻印石が移設展示されている。刻印はかなり浅く彫れ判読しにくい。敷石は国道2号線を走っていた路面電車で使用されていた瀬戸内の花崗岩。余談ながら、路面電車は今は無く、幼少期に阪神甲子園パークに行くのに乗った記憶がある。

宮川河床遺跡

宮川河床遺跡
宮川河床遺跡
宮川の下流では、川底に矢穴列痕が走る割石5石が見られる。当時の地表面が現在の川底で船積みするための集石場だった。

このほか、川でいうと芦屋川と高座川の合流地点に1石、残石があるのだが、2023年現在、土砂に埋もれているため確認できていない。

臨港線

呉川遺跡で出土した残念石
海辺の集積地、呉川遺跡で出した残念石(残石)を臨港線沿いの歩道で展示している。出雲松江藩の堀尾忠晴と、若狭小浜藩の京極忠高の刻印石がある。

芦屋市立美術博物館

芦屋市立美術博物館の刻印石
芦屋市立美術博物館の入口に展示されている刻印石。写真左は「○に十」は日向佐土原藩、島津忠興のもの。

芦屋市立美術博物館の刻印石
芦屋市立美術博物館の庭には、山根耕氏の現代彫刻『時を結ぶ』という美術作品があり、呉川遺跡で出土した刻印石6石と割石1石、岩ヶ平刻印群で出土した刻印石1石が使われている。刻印は「○に小」は小浜藩京極忠高、分銅紋の出雲松江藩の堀尾忠晴などがある。芦屋市立美術博物館の庭は散策自由。

甲山森林公園から運ばれた残念石

春日町のマンション

春日町のマンションの矢穴石
春日町のマンションエントランスに使用された多数の残念石(矢穴石と割石)。この地にあった黒川古文化研究所が所有していた石で造られている。マンション管理人さんのお話では、黒川古文化研究所が西宮に移転するに際に収集していた石を残し、マンション建設時に使用してほしいと譲渡したと伝わっている。もとは、西宮市の甲山刻印群にて、甲山森林公園を造る際に遊歩道上にあった石で黒川古文化研究所や芦屋中央公園(後述)に移設された。

春日町のマンションの矢穴石
春日町のマンションエントランスの石材には、西宮市の甲山森林公園内と同じく、肥前佐賀の鍋島勝茂の刻印が見られる。京極家の刻印らしきものも見られた。

芦屋中央公園

芦屋中央公園の残念石
芦屋中央公園に見られる矢穴痕がある大量の残念石(残石)。先の呉川遺跡で出した残念石と、芦屋市立美術博物館のすぐ南側に位置する。芦屋市の学芸員さんに伺うと、先の春日町のマンションと同じく、甲山刻印群にあたる西宮市の甲山森林公園を造る際に遊歩道上にあった石が運ばれたものらしい。1.2ヘクタールの広い公園を囲むかたちで、ぐるりと残念石(残石)が置かれている。

残念石の調査で、芦屋市教育委員会の学芸員さんに大変お世話になりました。記して御礼申し上げます。

(文・写真=岡 泰行)

大坂城残念石Googleマップ「芦屋市編」

参考文献:
『広報あしや』2020年7月号
『徳川大坂城東六甲採石場』(2022芦屋市教育委員会 社会教育部 生涯学習課)
『大阪城石垣のふるさとを歩く』(2007芦屋市教育委員会)

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