豊臣大坂城の歴史
秀吉時代の大坂城を「豊臣大坂城」、徳川時代の大坂城を「徳川大坂城」と言う。豊臣家は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で敗れ、大坂城とともに滅亡する。その後、大坂城の地には、新たに徳川幕府によって盛り土され、徳川大坂城が築かれた。現在見られる大阪城はこの時の城で、秀吉の大坂城は地下に眠っている。発見された豊臣大坂城の遺構は少なく、常時公開でないものもあるが、これらの遺構を実際に目にすると、徳川大坂城とは異なる、豊臣大坂城の規模やその時代を強く感じ取るこができる。
(これらの遺構に出会い撮影するのに17年の歳月がかかりました。遺構を見る機会をくださった関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。)
地下に眠る豊臣大坂城の遺構
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秀吉の大坂城本丸中ノ段帯曲輪の石垣
現在の本丸の地下にあり普段は非公開
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秀吉の大坂城本丸詰ノ丸石垣
現在の本丸の地下にあり普段は非公開
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豊臣大坂城の天守台石垣
現在の本丸の地下にあり普段は非公開
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大坂城の大手口のを守るために掘られた障子堀
大阪府警建設時の発掘調査で出土・見学不可
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大坂城三の丸北端の石垣
ドーンセンター・移築・見学自由
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大坂城三の丸北端の石垣
追手門学院小学校、東側の通用門付近・見学自由
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追手門学院小学校内に残る石垣石
校舎建て替え時の発掘調査で出土・道路上からガラス越しに見学可能
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大坂城極楽橋の唐門
見学可能(竹生島・滋賀県)
現在、豊臣大坂城詰ノ丸石垣の公開施設を造るべく、大阪市によって「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」が起ち上がり、広く寄付を募っている。また、豊臣石垣コラムでも豊臣石垣について詳しく紹介されている。
(文・写真=岡 泰行)