大阪城大手口多聞櫓の修理記が、続櫓南入口に記載されている。昭和36年、昭和44年の『修理報告書』をざっと要約した内容で、修理や復元を何を基準に行ったかが書かれている。ところが櫓内は暗く、とても判読できる状況ではなかったので、なんとか文字を起こした。当時の工事主任(山野満喜夫さん)が書かれていることもあって、大阪城の特別公開を読み解く上で大変参考になるので、見学前に目を通しておくと良いぞ。
重要文化財大阪城 多聞櫓外昭和修理記
大阪城の重要文化財建造物の昭和重修は、昭和三十一年四月に起工した乾櫓を最初として、他の十二棟は昭和四十四年九月終了の金明水井戸屋形を最後にすべて終了した。
尚昭和二十五年九月三日のヂェーン台風に倒壊し、大阪市が部材の一部を保管していた桜門の左右塀も、桜門の修理と併行して倒壊前の構造形式にて復旧した。大手門は従来寛永元年頃創建したものが、天明三年雷火にて焼失し、嘉永元年に大手口枡形多聞櫓の再建と前後して再建したものと考えていたが、発見した多聞櫓のない時期の大阪城全景の古図を参照に、建物を解体調査すると、寛永創建時の材が大部分で、幕末に解体修理をしたものであることが判明した。今回の修理は解体修理を行ったが、幕末以降に建設された両脇塀の取付により当初復元は困難であったので幕末修理時点状態のものに倣う修理とした。
大手門南方塀は明治に入って大阪鎮台の折に建設したもので、明治初期の大型煉瓦を、石灰トロで積み、漆喰を上塗りし、野地は木造で、屋根を瓦で葺いたものである。南西隅の天端石は付近の銃眼口を有する狭間石と異なり、現存しないが古図では南側の高台は多聞櫓があったもので、礎石は今も残っておるなど、幕末までの形態が明瞭でないので、控柱、化粧土台廻り屋根などを整備するほぼ旧状ままの補修とした。大手門北方塀は解体してみると土台の大部分は古材であるが、他材は全部取り替えられていた。たまたま多聞櫓内に古式な塀の柱十一本、桁の断片、棰一本保存されていることが発見された。これは古式な多聞櫓北方塀と比較して棟高、軒巾、柱の木枘仕口などが近似であることが判明したものの柱には墨書が二通りあり、控柱に連繋する貫穴が水平の場合と傾斜の場合の二通りあり、棟納りで多聞櫓の石垣面にある棟木差枘穴と同高にはならぬ等疑問のあることも判った。
即ち現在の形態は、幕末の修理時に倣ったもである。多聞櫓北方塀は昭和三十六年九月十六日の第二室戸台風時に甚だしく破損したので、半解体修理とした。部材は古式で、多聞櫓、千貫櫓との取合わせよく、元和創建時唯一残存塀と判ぜられるものである。但し控柱の形式が判明し難いので陸軍の手によってなる煉瓦積の控柱はそのままとした。(今多聞櫓際に素木の斜控柱が一丁残っているのが他柱にある控柱連繁貫は上下二通り水平差しの穴が掘られているので斜柱ではない。)多聞櫓は文献、形式等よりみて幕末の再建建築であろうといわれていたが、棟札その他各所の墨書によって、弘化四年に着手し、嘉永元年に竣工したものであることが明確となった。明治以降、鎮台、師団時代に室内が利用され、太平洋戦争時に羽目板などを撤去するなど荒廃甚だしかったが、痕跡による復原の資料を得たので、当初の形式に復旧整備した。金明水井戸屋形は従来他所にあった寛永三年創建のものを天守焼失後現在地に移築したものであろうと考えられていたが解体の結果、棟木に寛永三年の墨書があり、打替えの釘穴がないことより創建以来解体したことのない建物であることが判明した形式は社寺の一般水盤舎と大差のない一間構えのものであるが、礎盤があり、破風板端に絵様繰形を附する等唐様風のものである。解体修理としたが、補強のために後世附加された部材は撤去して寛永創建時の形態に整えた桜門は本丸の玄関口に当る門であるため、明治元年の戊辰の役に焼失した直後復旧されたものと考えられていたが、解体の結果冠木上より明治二十年の銘札が発見され、なお使用釘も全部丸釘であること等より明治二十年の再建であることが判明した。大手門よりやや小振りであるが、曇肘木を挿入し内法の高い高麗門である。本柱は一廻り小振りであったこと控柱は掘立柱であったこと、門前に四級の石階があったこと門前の土橋天端は現在より約一米低いことなど知り得たが、創建の構造形式は知ることができなかったので、修理は明治二十年再建時のものに整備した。桜門左右塀は昭和二十五年九月三日のヂェーン台風に倒壊し撤去されていたものである。その際幸いに桜門の冠木に接続の絵振板二枚が一番櫓内に保存されていたので、軒の高さ、巾、形式が判り、また倒壊前の写真があるので、屋根瓦葺の形式大壁の足元水切仕舞、銃眼等具体的に知ることができ、それらによって明治二十年再建時の形式に復した。
工事は大阪市公園部の二部予算に計上し、国庫補助金を五○%受け、公園部大阪城公園事務所が、文化財建築技師を嘱託雇用して運営し、大林組の一括請負にて施工した。
工事費は七千四百六十万円を要した。
工事関係者 大阪市長 中馬 馨
公園部長 加藤 男
大阪城公園事務所長 赤瀬多佳雄
工事指導官文部技官 佐藤 登
工事主任 山野満喜夫
山野 記
尚さきに修理した千貫櫓は、中通り土台に元和六年九月御柱 建、の墨書があることにより創建年月は明瞭で、乾櫓と倶に元和遺構の建物である。軒唐破風飾り、急勾配の階段二階の荷揚装置などに特徴がある。名称は豊公時代にも称していた建物があり、古式な石高を意味すると解すべきである。全解体修理をした。焔硝蔵は文書では万治年間頃のものであるが、壁体の石積工法刻印などに寛永創建物と考慮される節がある。全構成は石造で屋根を方形本瓦葺とし入口に銅扉を建て換気装置を側壁に設けた火薬庫として本邦随一の構造物である。屋根葺替扉補修が主たる工事であった。金蔵は本丸創建の寛永初期に創建されたものであることは各部の構造手法から推察できるが、現状の平家に改造されたのは棟東の墨書にある天保十年頃である。建物の床壁体屋根入口窓とも三重造りで防火、防濕、防盗に対する処置が考慮されていて土蔵造りを代表する貴重の遺構である。全解体修理を施工した。
以上三棟の工事費は昭和三十六年九月精算にて金二千六百十六万円を要した。
工事主任 山野満喜夫 記
一番櫓は寛永五年頃、六番櫓と同時期に創建したものであるが、細部において六番櫓とは差異があり、寛文八年の墨書が多くあることに微しその頃大掛りの修理があったものと判断できる(床下材に乾櫓と同形式と思える土台柱などが数本存ず)構造手法は六番櫓に近似の建物である。全解体修理を施工した。
昭和四十年精算にて金二千十万円を要した。
工事主任 山野満喜夫 記
以上、後資のため記録し多聞櫓渡櫓中央室梁繁に添付保存す。(乾櫓、六番櫓は各櫓内に添付してある)
昭和四十四年九月三十日
部分修理(壁・金物部分)平成七年六月
重要文化財 大阪城多聞櫓
平成二十六年度 屋根部分・壁ほか修理
重要文化財 大阪城多聞櫓・塀三棟
平成二十八年三月 屋根部分・壁修理
(続櫓内『多聞櫓外昭和修理記』より転載)