焔硝蔵 大阪城の特別公開の見どころ
焔硝蔵とは
「焔硝(えんしょう)」とは、硝石を精製して作る硝酸カリウムのことで、焔硝に硫黄と木灰を混ぜると黒色火薬ができるらしい。江戸時代には火薬を貯蔵した櫓を焔硝蔵と呼んでいて各地の城にあったが、当時の姿で残されているのは、大阪城の焔硝蔵のみだ。
焔硝蔵の歴史
創建は、貞享2年(1685)で、大坂城代を務めた常陸国土浦藩主、土屋政直によるものだ。大坂城代は70人が務めているがその16代目となる。
火薬二万一千九百八十五貫六百匁(約82.5トン)、鉛玉大小四十三万一千七十九発、火縄が三万六千六百四十筋。これが万治3年(1660)6月18日18時頃の落雷で大爆発を起こした(爆発した焔硝櫓は青屋口にあった)。落雷の日が秀吉が死んだ月命日なのでその祟りだとか、そういったウサワも立ったらしいが、さておき、それ以降、焔硝蔵は二の丸東帯曲輪と伏見櫓付近に2棟あったそうだが、爆発から25年後の貞享2年(1685)に、この地に焔硝蔵が新築された。
大阪城天守閣の資料によると、その費用は当時の額で銀30貫482匁8分、現在の価値に換算すると約1億2,000万円となり、さらに6年後に23貫247匁余、約9,300万円で建て直されているらしい。
その後、城内では二の丸東帯曲輪の焔硝蔵が姿を消し、伏見櫓付近に残されていたもうひとつの焔硝櫓が、享保18年(1733)、服部緑地に移設された。その焔硝蔵は、その後、取り壊され、現在は服部緑地の片隅に案内板のみ残っている。
一方、火薬の製造工場は、寛文6年(1666)あたりから鴫野(しぎの)にあった。慶応4年(明治元年1868)、明治維新のおり、大坂城大火でここも大爆発を起こしたのだとか。
大阪城西の丸庭園内に一棟だけ残った焔硝蔵は、昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定され、昭和34年、内部の仕切りなどを撤去し創建当時の姿に戻し、屋根部分は解体修理工事が行われた。
焔硝蔵の見どころ
蔵というと土蔵で木造建築のイメージだが、焔硝蔵は、壁、天井、床を石造りとして、天井の上に土を盛り屋根部分のみ瓦を敷くため一部木材を使うという非常に珍しいかたちをしている。その珍しさが際立つのが天井で、見上げると梁石が10本並び、その上に棟石があり、さらにその上に屋根石が乗せられいる。
棟石は、梁石の上でカギ型に連結されている。約15.8mの長い棟石があれば良いのだが、当然ながらそんな長い石は存在しないので、11個の石を連結させて長い棟石を造っているという訳だ。
銅製の二重扉。写真には写っていないが一番外側にある木製の格子戸は、後世に盗難防止のために作られた柵。
東側の銅製の扉には、人名が書かれている。『保管者 人見大尉 代理者 大畠曹長』(旧陸軍時代のもの)。北村美穂さんにご教示いただいた。
石垣で造られた壁の厚さは約2.4m、内部の空間は長さ約15.8m、幅が約2.7mある。両側に銅製の二重扉が設置されている。二重扉は外側は内開き、内側の扉は外開きだ。床面の低い位置に通気孔が片側2箇所(計4箇所)設けられ、周囲には玉石が敷かれ水はけが考慮されている。また、主に内部の石垣で見られるが、目地漆喰が施されている(外側の石垣にも一部、目地漆喰の痕跡が認められる)。
内部から見た通気孔。
写真は外から見た南側の通気孔。内部まで一直線に繋がっているのが分かる。この石組みは本丸や二の丸で見られる排水溝と同じ積み方だ。
通気孔の出口に銅製の網が取り付けられていた(北側のみ現存)。
通気孔は、北側のみ石がもたれかけられているが、本来は南側もそうなっていたのではと思われるが定かなことは分からない。
煙硝蔵にもいくつか石垣刻印がある。ぐるっと焔硝蔵の周囲を回って探してみるのも面白い。
「中」の刻印は加賀藩 前田筑前守利常、「水引車」の刻印は、讃岐高松藩 生駒讃岐守正俊と、刻印がバラバラなため、創建時期から考えて、一説には、献上石の残念石や転用石を利用して造られたのではないかと言われている。
なお、大阪迎賓館内にある黄金の茶室の前に、焔硝蔵の図面や歴史に関するパネル展示があるので、合わせて訪れておくと良いぞ。
(文・写真=岡 泰行)
参考文献:
『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』(大阪市)
『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)
『日本名城集成 大坂城』(小学館)