多聞櫓北方塀 大阪城の特別公開の見どころ
多聞櫓北方塀とは
大阪城の大手口多聞櫓。その渡櫓西端室の北出口を出ると、千貫櫓まで土塀が左手にある。これが多聞櫓北方塀(たもんやぐらほっぽうべい)で、その長さは20.3m、丸狭間が3箇所、笠石銃眼が7箇所、屋根は本瓦葺だ。土塀の城内側は、幅二間の武者走りがあり、12段の雁木が続く。多聞櫓北方塀は元和創建時の土塀で、大阪城内の遺構で千貫櫓や乾櫓と並び最も古く、国の重要文化財指定を受けている。
修理報告書によると、土塀は多聞櫓側に取り付けた痕跡が無く、また、千貫櫓との間には隙間があることから独立しているらしい。天明3年(1783)に落雷で消失した多聞櫓。隣接するこの土塀が焼けなかったことについて、『日本名城集成 大坂城』(小学館)では、当時、城内の消防管理が、なんらかの形で機能していたのではないかとしている。
控柱
昭和36年9月の第二室戸台風で破損したため(大阪では風速50.6mを観測)、昭和44年に半解体修理が行われた。修理工事報告書によると、この時、創建時の控柱のかたちが判明せず、明治陸軍が設置した、煉瓦積の5本の控柱をそのまま残したらしい(ページ冒頭の写真)。銃眼を防ぐかたちで控柱が設置されているのも頷ける(明治陸軍の控柱設置時期は不明)。
渡櫓に最も近い場所に木製の斜めに設置された控柱が1本のみ残っている(下写真)。この土塀の控柱で唯一現存だ。では他の控柱を復元することもできたのではないかと思いがちだが、その他の土塀の柱には、控柱との連繁貫が水平差しの穴が掘られていたらしく、この斜めの柱ではないことが分かっているのだとか。また、斜めの控柱は幕末の材であることから、多聞櫓再建時に修理を受けたのではないかと考えられている。
石垣刻印
土塀の笠石銃眼に、「○に左」と書かれた刻印が見られるが、これは日向高鍋藩、秋月長門守種春の刻印。
御石火矢
大坂城の二の丸には大砲が50門設置されていた。『大坂御城内外諸覚書』によると、この土塀には、丸狭間が5箇所、石狭間が7箇所、御石火矢(大砲)が2箇所とあるので、かつては大砲狭間もここにあったということになる。写真(下)は、千貫櫓の修理前のもの。第二室戸台風で被災する前かと思われる。右手の土塀が、多聞櫓北方塀で、○印が大砲狭間ではなかろうか。
(『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓 修理工事報告書』(大阪市)より加筆転載)
(文・写真=岡 泰行)
参考文献:
『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』(大阪市)
『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)
『日本名城集成 大坂城』(小学館)