渡櫓 大阪城特別公開大手口多聞櫓の見どころ
渡櫓の歴史
大阪城の渡櫓は多聞櫓で、続櫓と同じく、寛永5年(1628)、徳川幕府によって建造されたが、天明3年(1783)に落雷で消失、その後、幕末の嘉永元年(1848)に再建された。
渡櫓と大門
渡櫓の1階部分は大門(おおもん)となっており、大阪城の大手枡形虎口の第二の城門となっている。2階は、東室(約50畳)、中央室(約70畳)、西室(約50畳)、西端室(土間)の4室に分かれており、入口は、先の続櫓からと、千貫櫓に通じる西端室の北側との2箇所に設置されている。
それでは、特別公開の順序通り、続櫓から渡櫓に入り見どころを歩いてみよう。
渡櫓の見どころ
東室入口
写真(下)は続櫓から見た渡櫓東室の入口。木階段があり、下部には石垣も見られる。実は、渡櫓は続櫓より、一段高く造られている(床面で約89cmの段差)。また、この接合部の壁は白漆喰で塗られているが主に防火用途かと思われる。壁の厚さは約34cm、戦闘時ではその厚さから容易に鉄砲も通さない。入口は狭く造られているので、階段を外してここを締め切ってしまえば、渡櫓を相当な時間守ることもできる仕組みだ。
この段差を昇る階段は、見学用に造られた階段で、実は古い階段を覆うかたちで設置されている(下写真)。階段の側面から見ると面白いのだが、古い階段の材が見られ、そのほぞ穴の間隔等からもとは三段の階段であることが分かる。古い階段といっても、本来の姿にと昭和44年に復元されたものだ。修理前はスロープが設置されていたらしく、修理時に床面に残っていた階段の痕跡から、三段の階段を復元したらしい。
また、階段の両側には、石垣が見られるが、表面がすだれ処理され、当時の目地漆喰がよく残っているので合わせて見ておこう。特に大手口多聞櫓では、目地漆喰が残っている箇所があり、これだけを探してみるのも面白い。
東室
扉は、土戸(漆喰塗り)で、内側に続櫓の東入口に復元された格子戸と同じものが、こちらも復元されている。扉をくぐり最初の部屋は東室で、約50畳(続櫓とサイズが異なり渡櫓の一畳は、98.5×210.6cm)の広さがある。室内はパネル展示で分かりにくいが、東側に窓があり、さらに床が一段上がるかたちで中央室へと続いている。
写真は渡櫓の東室内部から見る続櫓との出入口。
写真は東室。左側に見られる厚嵌板は高さ約99cmとなっていて、充分に身体を守る高さであることが窓の前に立つと分かる。中央室に入るには段差を上がる。中央室の下には大門がある。段差の材は、人が通る中央部に比べ南側は古い材なので、昭和44年に中央部のみ新しい材に変えたのではないかと想像してみたが、宮本裕次さんのお話によると、昭和の修理時の写真から大半の床材が欠損、その他の床材も腐食が想像されることから、このあたりは古い材をそのまま使った箇所は無いのではないかとご教示いただいた。
なお、前述のように、続櫓と渡櫓とでは、一間の寸法が異なる。渡櫓は、六尺五寸(約196.95cm)を一間としていて、続櫓の方は、六尺(約181.8cm)を一間している。
中央室
向かって右側に昭和44年修復時の古材が展示されているのであまり実感できないが、中央室は70畳の広さがある。床面が東西の部屋より一段高いが、この下に大門(おおもん)があり、南側(虎口側)には大門を通る敵を攻撃する槍落としが設置されている。槍落としは攻め手からは見えず攻撃されるまでその存在が分からない。
渡櫓の中央室。左手が虎口側。窓と槍落としがある。
3箇所設置された槍落とし。蓋が開いているのが分かる。蓋の外側は漆喰塗り。
写真は大門から見上げた槍落とし。槍落としの蓋が開いているので、3箇所あるのが分かる。
窓があるため、厚嵌板の高さは約55cmと東室や西室と比べ低い。
渡櫓には西端室以外、鉄砲狭間は無く、格子窓から鉄砲を撃つ想定だ。窓は鉄板張りの格子窓でその内側に、土戸があり、さらに内側に障子(復元)がある。窓の外にちらっと写っている敷居に溜まった水を排出する水抜きは銅角型だ。
窓の下は、続櫓にもあった厚嵌板が設置されている。できるだけ直下も狙えるようにと窓が比較的低い位置にあるため、厚嵌板の高さは約55cmと東室や西室より低く設計されているようだ(腰高厚横嵌板張)。また続櫓同様に渡櫓も城内側には厚嵌板が無い。櫓内の羽目板は、続櫓同様に、第二次大戦時に大部分が西の丸で防空壕を作る際に持ち出されてしまったそうで、昭和44年の修理時に復元されている。
また、ここで目に飛び込んでくるのが、頭上の小屋組だ。中央に棟木と平行方向に横に渡している太い材が目立つ。桁行き方向に掛けられた梁で、敷梁(しきばり)という。小屋の梁を受けるために設置されたもので、東室から西端室まで6本の材をつなぎ合わせて通している(中央通敷梁)。その太さから結構な迫力があるので見ておこう。
中央室の展示の中で、千貫櫓の鉄砲狭間の材がある。鉄砲狭間の仕組みはよく図解などで見ることがあるが、その実物が置いてあるので、見ておくと良い。二個の箱形を和釘で繋ぎ、突き上げる蓋は固い欅(けやき)で、金具で動作するというものだが、残念ながら、展示物は金具が外れてしまっている。設置時は、予め狭間の形に組まれた材が壁に埋め込まれるといった具合なのだろう。
余談ながら、中央室と東西の部屋の仕切りには、板戸がはまっていたが、その板戸は展示の裏側にまとめて保管してあるので、ちらっと覗いてみても面白い。
西室
東室と同様に、中央室より一段低く造られている。その段差分、身を守る厚嵌板に高さがあり約97cmとなっている。東室同様、約50畳の広さがある。この部屋はあまり展示物がなく、窓の少なさから少し暗い。四室の中で最も櫓らしい風情があっていい。
西端室
西室の床面の高さから土間に向けて階段が設置された部屋で、小縁が半間、土間床が二間ある。特別公開時はここでスリッパから靴へと履き替える。土間にはジュータンが敷かれているため、ピンと来ないが、ジュータンの端を見ると、土間であることが分かる(貝灰、赤土、砂をにがり液で混ぜて叩いた土間)。これでは使いにくかったのか、湿気が多かったのか、明治陸軍の手によって、土間を利用せず床面を高く設置していたが、昭和44年の修理時にこれを復元した。
渡櫓でこの部屋のみ、外堀に面している。つまり大手枡形虎口に加え、城外から直接鉄砲などで狙われる可能性がある。土間で床面が下がっていることもあって、笠石銃眼が南面に2つ、西面に3つ設けられ、また、身を守る厚嵌板は、約2m30cmと最も高さがあり、隣りの西室の高さをカバーする(上写真)。
西端室は、北側には出入口が設けられているが、外側は土戸(漆喰塗り)、内側に板戸と二重の扉となっている(板戸は昭和44年の復元)。
また、修復時にこの部屋から棟札が見つかり、大手口を「追手口」、大手門を「追手門」、多聞櫓二階を「渡櫓」、一階を「大門」、続櫓を「続多聞」と称していたことが分かったらしい。
さて、外に出て、屋根の軒を見上げよう。隅木に銅板が打ち付けられている。これは千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓等でも見られるが、江戸末期の手法と考えられている。
大門の見どころ
渡櫓の1階部分が大門(おおもん)となっている。外観から見られる姿は実は当時の姿でないものがある。雨落ち溝はコンクリート敷きで改められている。中央の敷石はばらばらな大きさの石が敷き詰められていたが(本来の姿は不明)、大きめの石を、かたち良く敷き直している。また、本来は大門の手前に雁木坂があった。
門をくぐると、東西両サイドに揚床が設置されている。この用途はよく分からない。東側の揚床には、一部に鴨居が確認できるので、東側は部屋として機能していたに違いない。
また、ここで見ておきたいのは、大門内の両サイドの石垣だ。石垣には目地漆喰がかなり残っているので、チェックしておこう。渡櫓の石垣は本来すべて目地漆喰が施されていたが、風雨で大半が剥がれてしまっている。ここで往時の姿が想像できる。そのほか随所で部分的に目地漆喰残っているので、是非、探してみてほしい。
また、大門の西側の石垣には、「(加藤肥)後内」という刻印がある。文字は逆さになっており、「肥」の文字が削り取られている(写真中央付近)。
(文・写真=岡 泰行)
参考文献:
『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』(大阪市)
『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)
『日本名城集成 大坂城』(小学館)