金蔵とは
金蔵は江戸時代の幕府の金庫の役割を果たした建物で、徳川期の大坂城が西日本を統括する役割があったことから、幕府の西日本中央金庫として機能した。金蔵特別公開時の大阪城天守閣の資料によると、毎年多額の金・銀・銭の出し入れが記録されており、元禄16年(1703)の記録によると、前年に大判48枚、金13万7,488両3分3朱、銀4,436貫432匁1分5厘3毛、銭754貫893文のお金が納められ、新たな年には金23万326両1分、銀6,390貫121匁2分4厘3毛が支出が記録されていたという。
現代の価値に換算すると、元禄15年末の残金で508億9,000万円、元禄16年の入金が808億4,000万円、同年の出金が535億1,000万円、翌年への繰越が782億2,000万円で、おおよそ500〜800億円のお金が常に金蔵にあったことになる。これは幕府の収入の約4割ということになるらしい。それゆえ、防災に加え、外部からおいそれと侵入できない防犯意識が高い仕組みを持った建築物となっている。
金蔵の歴史
金蔵が造られたのは三代将軍徳川家光の時代で、徳川期大坂城の本丸の築造が進み金奉行が置かれた寛永2年(1625)、もしくはその翌年と考えられていたが、現在の金蔵は宝暦元年(1751)に新たに多聞を転用・改造して築かれたことが明らかになっている。「大坂城絵図 寛政5(1793)年(大阪城天守閣蔵)」には、金蔵が二棟描かれており、現在の金蔵の北側に「元御金蔵」、現存する金蔵を「新御金蔵」と区別している。
北にあった元御金蔵は、明治25年(1892)、配水池建設のため新御金蔵の東側に移され、その後、昭和4年(1929)に陸軍によって解体され、昭和5年(1930)、高槻の旧陸軍工兵隊内に移築、改築され残っていたが昭和40年(1965)に焼失した。高槻工兵隊は工兵第四大隊といい、大阪城本丸に旧第四師団司令部庁舎(現ミライザ大阪城)があるがこの第四師団に属する部隊で高槻城跡を拠点としていた。現在の高槻城公園には工兵第四聯隊跡の石碑が建つがその前あたりに移築された元御金蔵があったらしい。その後、大阪城内の元御金蔵跡地には陸軍によってコンクリート造りの車庫が建てられた。ちょうど旧第四師団司令部庁舎が新築された時期と重なるため、この辺りの整備のため解体されたものと推測される。
現存する新御金蔵の内部、前室は幅(東西)約5.7m、奥行(南北)約6.7mの広さがある。奥に見えるのは仕切り壁で右手に奥の部屋の扉がある
現在の金蔵「新御金蔵」は、宝暦元年(1751)、長屋状の建物を転用・改造して築造されたもので、二階建の建物を平屋に改築した。柱の痕跡や墨書きなどにより明らかになっている。その後、天保8(1837)年から明治までの間に、床下に換気孔を設置し、梁より上はすべて取り替え、外部の壁をなまこ塀にするなどのアップデートが行われている。
千貫櫓や大手多聞櫓と同じく昭和28年(1953)6月13日に国の重要文化財に指定され、昭和34年(1959)~同36年(1961)、当時の価格で約4,680,000円をかけ解体修理が行われ、旧陸軍によって改変を受けた箇所を本来の姿に復元した。その後、平成7年(1995)、同25年(2013)に壁や屋根の部分修理が行われている。全国の城郭ではかつて、江戸城、二条城、駿府城などにもあったが今は無く、唯一現存する金蔵となっている。
旧陸軍改変箇所の復元
昭和の解体修理で、旧陸軍が改変した箇所の復元が行われている。金蔵の入口が南側(旧第四師団司令部庁舎側)に改築されていたが、これを廃し北側に復元した。内部は一室になっていたが、間仕切りを復し大小二室に復元した。また、窓は東面に4つ西面に4つあったが、解体の結果、当時の三重構造の窓が発見されたことから、これまでの窓を廃し位置を改め南面に3つ東面に1つの窓に復元した。窓回りは浸水による被害が甚大で羽目板の下部や床板が腐食が多く、柱を含めこの時、新材に入れ替えられた箇所が多い。内部を見学すると羽目板や柱など新しい材が多いのが頷ける。昭和の修理の時、使用されていた古材の一部は金蔵内の梁の上に保存されている。
解体修理前の金蔵、南側に付けられた入口
(『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』より転載)
金蔵の特徴と構造
金蔵は、平屋造りで屋根は寄棟本瓦葺、外壁は腰の高さ付近まで海鼠塀で目地漆仕上げ、上部は総塗籠造りとなっている。内部は大小2部屋あり、手前には普段出し入れする金銀を置き、仕切りをはさんだ奥の小さな部屋には非常時の持ち出し用に一定額のお金が納められていた。このため、奥の部屋の金銀は「仕切除金銀」と呼ばれていた。
金蔵の入口
金蔵の入口は北側中央にあり、柱を建て瓦葺きの屋根を伸ばしている。扉は三重になっており、一番外側から、両開きの塗籠土戸、次に片引の薄土戸、最後に鉄格子戸の扉が設けられている。三番目の鉄格子戸には「枢鉤(くるるかぎ)」という道具を使い落とし桟を持ち上げる昔ながらの鍵がある。
金蔵の入口三重構造、外側の両開きの塗籠土戸
二重目の片引の薄土戸
三重目の鉄格子戸。左下に「枢鉤」の鍵穴が見られる
落とし桟を持ち上げる「枢鉤」
室内から見る「枢鉤」の鍵穴と落とし桟。枢鉤をどのように使用するのか、『大坂城豊臣石垣公開プロジェクト』の豊臣石垣コラムVol.83「公開事業に伴う発掘調査の経過(2)-「金蔵」と周辺の遺構 -」で動画公開されている。
窓の構造
窓は、昭和の解体修理中に発見され復元された。三重構造となっている。外側から、両開塗籠戸、鉄製格子戸、片引戸(薄塗籠あり)という構造だ。中間の鉄製格子戸は、外側の塗籠戸の鍵を外すため手が通る分のみ開閉する仕組みとなっている。
外側から見る金蔵の窓。塗籠土戸を開くと鉄製の格子戸が見られる。
内側から見た金蔵の窓。鉄製の格子戸と片引の木製の戸がある。赤丸は小さく開く窓で外側の塗籠土戸を開く時に使用する。
床下の構造
床下には基礎石が敷き詰められ、地面を掘って侵入ができない仕組みとなっている。その上に礎石を置き、床板を支える大曳きと呼ばれる太い材を支える構造となっている。金蔵に収められる金銀の重量を考慮した設計だ。
写真は奥の部屋で見られる床下の構造。奥の部屋は幅(東西)5.7m、奥行(南北)約3.8mで前室の約半分弱の広さとなっている
換気孔
東西それぞれ3箇所に換気孔が設けられている(計6箇所)。床面、床下、外壁と鉄格子が三重の構造となっている。南室である奥の部屋にはうち一つの換気孔があり、室内側で鉄製の持揚げ蓋が設けられているはずなのだが、現在は古材が換気孔の上に積み重なって置かれており、持揚げ蓋の存在を確認することができなかった。
室内から見る換気孔、床下側にも鉄格子が設けられ侵入できない造りとなっている
外から見る鉄格子の換気孔
そのほかの見どころ
昭和の修理時に復元された仕切りの壁。右側に奥の部屋への扉がある。左手に見られる棚は修理工事報告書にも記載が無かったため詳細はわからない。
古材の一部は金蔵の梁の上に保存されている
金蔵の南北の鬼瓦には「昭和三十六年度修補」「姫路市船津町 小林平二 作」の文字、望遠レンズで捉えた
奥の部屋の羽目板には、終戦後3年近く占領していた米軍が残したと伝わる文字「2・20 KEEP ○○○○○○」
金蔵の基礎の石積には、石と石との間に鉄のくさびが随所で使われている。石材のすき間を埋める鉄製の補強材「敷金(しきがね)」かと思われる
金蔵は周囲より低い土地に建つ。これは徳川期の地表面が金蔵の地表面で、現在の本丸地表面は公園化に伴い盛り土されているため、こうなっているらしい。
(文・写真=岡 泰行 取材協力:大阪市)
『重要文化財 金蔵』現地案内板の記載内容
江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。
宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵【もとごきんぞう】」、この金蔵を「新御金蔵【しんごきんぞう】」と呼んだ。高さは約5.8メートル、面積は93.11平方メートルで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。なお元御金蔵は、明治25年(1892)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。
参考文献:
『重要文化財 金蔵』解説資料・特別公開時資料(大阪城天守閣)
『重要文化財 大阪城 千貫櫓・焔硝櫓・金蔵修理工事報告書 附 乾櫓』(大阪市)
『しろあとだより 2015第11号』(高槻市立しろあと歴史館)