写真:岡 泰行

大阪城の歴史と見どころ

大阪城(大坂城)は3つの時代に築かれた城郭からなる。中世の石山本願寺、豊臣秀吉が築城した豊臣大坂城、そして徳川幕府によって再建された徳川大坂城だ。室町時代、本願寺8世蓮如が上町台地に建立した石山御坊が後に本願寺の本山となり、堀や土塁を備えるなど城郭化した。これが大坂城の前身となる。織田信長は交通の要衝であったこの地に価値を見出し、11世顕如に明け渡しを要求。これを機に約11年にも及ぶ石山合戦が繰り広げられた。天正8年(1580)、和議が成立し本願寺勢が退去する際、放火とも言われる火事で全山が焼失する。本能寺の変を経て信長の後継者となった秀吉は天正11年(1583)、豊臣大坂城を築く。金箔瓦を施した5層8階(7階説もあり)の大天守や千畳敷の御殿などが立ち並ぶ5つの郭と、城下町ごと囲む総構えを持つ、豪華で壮大な城となった。しかし、栄華を誇ったこの城も、大坂の陣により徳川に攻められ落城する。

元和6年(1620)、徳川幕府二代将軍秀忠は西国への備えとして大坂城の再築城に取りかかる。旧本丸を大量の盛土で埋め、堀を広げるなど、縄張りも大きく変更された。現在、見る姿はこの時築城された徳川大坂城で、鳥羽伏見の戦いや第2次大戦の戦火を逃れた大手門千貫櫓など13棟が、重要文化財として残る。昭和6年には大阪市民の熱意により、鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守が復興された。この天守はかつての天守より最も長い歴史を今に刻む。また、2013年には大阪市の「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」が始まり、地下に眠る秀吉の大坂城の石垣を掘り起こし、公開展示する施設を造る計画が進んでいる。ときおり城を訪ね、施設の完成を愉しみに待ちたいと思う。

石山本願寺時代

一説には信長が最終の居城と考えていたといわれる石山の地(石山は大坂の別名)。また、大坂城(大阪城)と言えば、誰でも秀吉を思い出す。だがその地には、元々は、信長が足かけ10年あまりの歳月をかけ攻めた、一向宗の本拠、石山本願寺があった。石山本願寺は浄土真宗の本山で濠や土居といった防御機能を持ち、鉄砲集団である雑賀衆とも通じ、多くの僧兵を抱えていたとされる。

真宗大谷派第11代門首、顕如のとき、反織田勢力と手を結び、信長包囲網を完成させるなど信長と敵対した。天正8年(1580)、朝廷の仲介により和議が結ばれ、信長は本願寺を紀州へと追いやり、丹羽長秀や織田信澄などを常駐させ(信長の番城)、本能寺の変までの2年間は織田信長が城主であった。

豊臣大坂城時代

本能寺の変の後、天正10年(1582)、池田恒興が摂津一国で入封、その1年後に秀吉は、この本願寺の遺構を利用することから始まり、3年半の歳月をかけて難攻不落の名城、大坂城を築城する。秀吉の大坂城は、天正11年(1583)9月1日に正式に着工された。かつての居城だった姫路城長浜城の建築物も解体してその材木が取り寄せ本丸に利用されたことが、現存する秀吉の書状から判明している。本丸の造築で動員された人工は当初は2.3万人、ほどなく5万人が日々の作業に動員された。西国30のあまりの大名に命じた築城だ。城郭はその経済力や労働力から、ほぼ2年あまりで完成し、さらに外郭の工事が進められ、それまでにない規模の大城郭となる。城攻めの達人の当の秀吉も、正面から落とす方法はないと言ったほどである。遠く、大坂湾から見える大坂城は、どんな姿だったのだろうか。

豊臣大坂城の詰ノ丸石垣
豊臣大坂城の本丸、詰ノ丸石垣。写真は2014年再発掘時。

徳川大坂城時代

大坂冬の陣の後、家康が大坂城の外堀を埋め、元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏は秀吉の大坂城と共に滅ぶ。大坂城はその後、徳川氏のものとなり、徳川家康の死後の元和5年(1619)、2代将軍の秀忠は大坂を幕府直轄地とし、伏見城がその役割を終え廃城、それ以降は大坂城が西国有事に備えた幕府の軍事拠点を担うこととなる。城の再建は西国64藩に命じ、元和6(1620)年3月から約10年の歳月をかけ、豊臣大坂城に代々的に盛り土を行い、新たな大坂城を築造し直した。この時、普請総奉行を務めたのは尼崎城主の戸田氏鉄(とだうじかね)だ。戸田氏鉄は尼崎城を築城した後に、大坂城の普請総奉行に抜擢されている。大阪城天守閣の元館長、中村博司氏は築城名人の戸田氏鉄が抜擢されたことについて、尼崎藩領内にある六甲山系の花崗岩(石垣石)とそれらが海での運搬が可能なことが考慮された、大坂城再建を視野に入れた大名配置ではないかとしている。松平忠明が摂津大坂藩10万石で入って後は、明治維新まで常に城代が入ることになる。現在の大阪城はこの時築かれたもので、重要文化財の櫓や門が多数残り、その壮大な石垣や縄張は目を見張るものがある。

大阪城特別公開のエキスパートガイド

現在、目にすることのできる城は徳川期の大坂城で、続櫓渡櫓千貫櫓焔硝蔵乾櫓金蔵など13棟の重要文化財があり、石垣や各曲輪は他に類を見ない壮大な規模だ。目に見えるものを中心に特別公開を深掘り解説する。

大阪城散策の必見スポット&秘話満載の最新ガイドブック

歴史を知っておくと観光が3倍は面白くなる。大阪城散策に役立つ豆知識や秘密、現存遺構などの見どころを深掘り解説する。

地下に眠る豊臣大坂城

豊臣秀吉が築城した三国無双の城、大坂城。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家とともに滅亡する。その後、豊臣期大坂城に盛り土を行い徳川期大坂城が築かれたため、その多くは今もなお地下に眠っている。

大阪市は大坂夏の陣から400年を機に「秀吉が築いた初代大坂城の石垣」を掘り起こし、豊臣石垣の公開事業に取り組んでいる。下記Webサイト内では豊臣石垣や大坂城について詳しく掲載されている。筆者も微力ながら大阪城の撮影スポットで寄稿している。

大阪城の関連資料

現地では大阪城天守閣は博物館。その展示は優れたものなので、一度、足を運んでおこう。現地ではほかに本丸にある「ミライザ大阪城」(旧第四師団司令部庁舎)の特別史跡大坂城跡展示室(無料)がある。大阪城に関するパネル展示が主体だ。また書籍は、大阪城天守閣内で過去の企画展の図録などが購入できる。

北御堂ミュージアム

少し大阪城から離れているが、2019年1月にオープンした「北御堂ミュージアム(大阪市中央区本町)」では、大坂本願寺(石山本願寺)の復元模型の展示が見られる。

大阪市中央区の史跡文化辞典

中央区史跡文化辞典大阪市内には忠臣蔵関連の石碑や奉行所の石碑など多数の石碑がある。これらをつぶさに知るには『中央区史跡文化辞典(大阪市中央区役所発行・A5・128ページ)』が良い。大阪市中央区役所で手に入る。

大阪城の撮影方法

大阪城で感じる日本の美を探る。

大阪城10景+高層ビル3景

撮影スポットも豊富な大阪城。姫路城並みに角度を変えて表情を楽しめる城だ。その一押しと言えば西の丸から。城ファンとして見ておきたい主に天守を望む造形美が優れた撮影場所10選をご紹介。このほかにも、美しく見られるスポットが多数あるので、ぜひ城内を歩いて探してみてほしい(詳しい場所は、上記Googleマップのカメラマークをチェック)。

大阪城のライトアップ美しさの秘密

大阪城のライトアップの時間は、日没10分後から段階的に点灯がはじまり、約1時間をかけてフル点灯の状態になる。消灯は、24時より順次消灯し24時30分に完全消灯する。時間をかけて変化するライトアップの光景。その美しさと特徴を詳しくご紹介。

大阪城が季節映えする3シーズン

3月の梅林

大阪城の梅林大阪城の梅林は、本丸の水堀を挟んで東側にある。豊臣時代、片桐且元の屋敷があったところだ。梅林では、約100品種の約1,270本の梅が咲き誇る。木々の合間が遊歩道になっていて、天守閣が望めるスポットを歩いて探すといった具合だ。最も咲き誇る3月上旬が狙い目。Webサイト『大阪市花と緑の情報サイト』で梅の開花情報をチェックすると良いぞ。

4月上旬の桜

大阪城の桜大阪城公園の桜は、公園内の東側に多いがこれが天守閣からかなり離れている。花見目的なら公園東側の散策が良いが、天守閣とセットで写真を撮りたい場合は、西の丸庭園に入ると良いぞ。ちなみに大阪市の桜の標本木も西の丸にあり、毎年5輪の花が咲くと開花宣言となる。

11月中下旬の紅葉

大阪城の紅葉毎年、11月の中下旬が見頃。銀杏が多い西の丸庭園がおすすめ。また、灰色の石垣に上にはうツタも紅葉しているその風情も良い。西の丸庭園から本丸の空堀越しに天守閣を捉えてみよう。

大阪城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る大阪城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

大阪城の関連史跡

大阪城の残念石と石丁場

大坂城の残石石採石場である石丁場跡や京阪神の平野部に点在する残念石を追いかけ作成したエリアごとの一覧。大阪市、大東市、東大阪市、木津川市、西宮市、芦屋市など、主要な石丁場跡と残念石を追う。

真田幸村の足跡を訪ねて

三光神社の真田幸村の銅像やはり真田幸村(信繁)の足跡を求めて大阪城の南側に足を運びたい。道すがら歴史スポットが多く、同時に見ていくと良いだろう。なお、途中駐車場が無いケースが多く、真田出丸城までの散策は徒歩が向いている。天王寺にある安居神社や茶臼山は地下鉄で天王寺まで移動するのが速い。

真田出丸城跡(真田丸跡)

真田丸跡に建つ心眼寺大阪城の南に長堀通と呼ばれる東西に伸びる通りがある。ざっくり言うとその道が大阪城の最南端の空堀跡。この通りを越えて南下すると真田山と呼ばれるエリアがあり、心眼寺近辺の高台が真田出丸城跡となる。心眼寺には、門前に真田丸跡の石碑がある。その東端に段差が今も残る。また、境内には、大坂夏の陣で討死した本多忠朝の墓も。また、心眼寺の東に広がる公園内には、三光神社(さんこうじんじゃ)があり、真田幸村の銅像や大坂城への抜け穴が境内にある。真田丸の規模については諸説あるが「真田丸の具体像に迫る(豊臣石垣公開プロジェクト)」を参考にすると良いぞ。

真田幸村最期の地「安居神社」

真田幸村最期の地、安居神社真田幸村最期の地。2009年12月に建てられた真田幸村の銅像と石碑があるぞ。なお、境内は7時〜16時頃となっており時間外は入ることができない。

茶臼山

茶臼山大坂冬の陣では家康の本陣に、大坂夏の陣では幸村の本陣となった小高い古墳跡。現在、はっきりと確認できる遺構はないが、家康本陣の台所跡などが過去に発掘されている。茶臼山から大阪城は上町台地で繋がっている。現在もその山が残っているので足を運んで大阪城との距離感を体感すると良いかも。

豊臣時代の大坂を偲ぶ

現在の大阪城は徳川が築いたもので、秀吉時代の大坂城は地下に眠っている。城下も都市開発で変貌を遂げているが、数少ない豊臣時代の痕跡を求めて歩く。

太融寺の淀殿の墓

淀殿の墓(太融寺)大阪の東梅田駅から徒歩5分、太融寺(たいゆうじ)の境内に淀殿の墓がある。見学自由。太融寺は高野山真言宗の寺院で、秀吉の頃は現在よりはるかに寺域は広かった。先代の院主さんのお話によると明治10年に、太融寺に大阪の鴨野(しぎ)の弁天島にあった淀殿の墓が運ばれた。石碑は豊臣大坂城の石と、小谷城の石が置かれている。

太閤背割下水

太閤背割下水現在も使われている当時の下水(地下)。地上の覗き窓から内部が見られるような公開施設になっている。2006年に約7kmが大阪市文化財に指定された。太閤下水は秀吉時代からのものと特定されていないが、江戸時代前期からその記録があるのだとか。事前申込みで地下に入ることができる。余談だが公開施設前の南北の通りは熊野街道。さらに南下すると下記の空堀の段差がある。

田島北ふれあい広場(空堀の段差)

大坂城の空堀の段差(田島北ふれあい広場)大阪城の最南端の巨大な空堀。長堀通と呼ばれる東西の通りを歩くと至るとことでその段差が実感できるが、その段差として長く代表的な段差が空堀商店街にある。商店街から狭い路地を進むことになるので、訪れる際は上記マップを参照してほしい。

細川ガラシャの最後の地「越中井」

細川ガラシャの最後の地「越中井」越中井(えっちゅうい)は、細川ガラシャが家臣に胸を突かせて自害した場所とされる細川忠興の屋敷跡で、その井戸跡と、細川ガラシャ辞世の句碑が建つ。

カトリック玉造教会‎

カトリック玉造教会越中井を少し南下すると左手に「カトリック玉造教会‎」がある。教会前には高山右近と細川ガラシャの石像が建ち、教会内には2人の肖像画がある。

玉造稲荷神社

玉造稲荷神社カトリック玉造教会から東に進むと「玉造稲荷神社」がある。慶長8年(1603)に豊臣秀頼より奉納された「豊臣秀頼公奉納鳥居」と「豊臣秀頼の銅像」がある。玉造稲荷神社は、大坂城の守護神として祀られていた。また、境内には、この付近に屋敷があったとされる千利休の石碑「千利休居士顕彰碑」も。良質の水脈が走り、お茶の水は邸内の井戸から組み上げていたのだとか。

竹生島に移築された極楽橋の唐門

大坂城極楽橋の唐門淀殿が移築したと伝わる大坂城の極楽橋の建築遺構が滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島にある。宝厳寺観音堂唐門だ。竹生島は淀殿が幼少期を過ごした小谷城からも見え浅井氏が信仰していた。豊臣大坂城の唯一の建築遺構を見逃すなかれ。

大坂の役の史跡

秀忠の本陣だった御勝山古墳や、道明寺の戦い関連など、随所で展開された大坂の役の史跡が点在している。常光寺(大阪府八尾市本町)には、八尾・若江城の戦いで徳川方の大名、藤堂高虎が常光寺の縁側で首実検をした。その縁側の板が西廊下の天井として血天井として残っている。また、増福寺(大阪府天王寺区生玉寺町)には、大坂の陣で活躍した豊臣方の武将、薄田隼人(岩見重太郎)が、この地で亡くなりその墓がある。

そのほか大阪市内の関連史跡

適塾 緒方洪庵旧宅

適塾 緒方洪庵旧宅蘭学者、緒方洪庵が弘化二年(1845)に、住宅として移り住み、将軍侍医として17年後に江戸に行くまでの間、私塾「適塾」を開いた場所。緒方洪庵はコレラの治療や天然痘の予防などに大きな貢献をした人物。適塾には福沢諭吉や大村益次郎も入門している。

旧黒田藩蔵屋敷長屋門

旧黒田藩蔵屋敷長屋門茶臼山と同じ公園内にあるので、茶臼山を訪れた際はちらりと見ておこう。江戸時代中期の蔵屋敷の長屋門。中之島から移築保存されている。

大阪くらしの今昔館

大阪くらしの今昔館江戸時代天保年間の大阪の街並みを実物大で再現しているぞ。屋内施設。雨の日などは大阪城から思い切って移動しても良いかも。

大阪城のおすすめ旅グルメ

食事は本丸のミライザ大阪城へ

ミライザ大阪城(旧第四師団司令部庁舎)屋上からの眺望大阪城の本丸広場に2017年10月19日、「ミライザ大阪城」が開業した。本丸に残る「旧第四師団司令部庁舎」を18億円をかけ改装し、たこ焼きからイタリア料理店まで飲食店も多数入っている。午後10時まで営業。大阪城で食事するには、これまで大阪城の北側「松下IMPビル」あたりまで足を伸ばすか、どこかでお弁当を用意して大阪城公園内で、または本丸内で軽食をという手段だった。これほど大阪城を間近に見ながら食事ができるスポットが誕生したのは嬉しい。屋上からは大阪城天守閣をこれまでと違ったアングルで望むことができる(写真は屋上からの眺望。眼下に見えるのは重要文化財の金蔵)。また、1階には特別史跡大坂城跡展示室があるのでこちらも要チェック。

ミライザ大阪城の建物は、旧第四師団司令部庁舎

旧第四師団司令部庁舎旧第四師団司令部庁舎は、鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階で、大阪城天守閣を再建する際、寄附金150万円のうち半分以上の80万円を投じて昭和6年(1931)に建てられた。内部は貴賓室をはじめ、随所に意匠が施されている。屋上は高射砲陣地として戦前は機能し、一段高いところには機関銃の銃座が今も残る(機関銃銃座は今後も非公開)。館内はこれまで特別公開時のみ入ることができたが、これからは「ミライザ大阪城」の営業中は入ることができる。江戸・戦国時代ではないが、今や歴史的建造物なので、ちらっと建築意匠などを見ておくと良いぞ。

大阪城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

大阪城を真南から見下ろす眺望「KKRホテル大阪」

KKRホテル大阪から望む大阪城大阪城の眺望で最もお奨めなのがJR森ノ宮駅下車、徒歩5分の「KKRホテル大阪」。大阪城の真南に隣接し、一番櫓・六番櫓・大阪城天守閣など、全てが視野に入る絶好のポイント。5階には大阪城が撮影できるテラスがあるので足を運ぶと良いぞ(テラスは9時〜17時)。

そのほか、北側から望む「ホテルニューオータニ大阪」があるが、北側ゆえ逆光になることが多く、眼下の大阪城ホールの屋根がアングル上、邪魔になる。あくまで第二候補だ。眺望にこだわりが無い場合のホテル探しは、大手門のある方向にビジネス街に出れば、谷町三丁目付近から本町付近まで、多数のビジネスホテルがある。

大阪城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府大阪市中央区大阪城1-1 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:06-6941-3044(大阪城天守閣)
※大阪城公園内は大阪城天守閣と西の丸庭園(有料公園)を除き散策自由。

開館時間

大阪城天守閣

大阪城天守閣は、AM9:00〜PM5:00まで(入館はPM4:30まで)。4月の桜シーズン・ゴールデンウィーク・夏休みや秋の特別展中は開館時間をPM7:00まで延長していることがある。展示内容は面白く、巨大な大坂城の模型もあり必見。金名水井戸は、入場しなければ見ることはできない。

西の丸庭園

大阪城本丸の西側にある広大なエリアで庭園となっている(有料)。西の丸には、桜や紅葉樹があり、季節的にもその風景が良い。公園内に、千貫櫓をはじめ、焔硝蔵乾櫓の三棟が現存している。

アクセス

鉄道利用

大阪メトロ、谷町4丁目駅、1-B番出口から東へ徒歩5分で大手門。大手門から登城すると城の顔が見えるので良い。
または、JR大阪環状線、森ノ宮駅、大阪城公園駅からいずれも徒歩すぐ。青屋門まで徒歩10分。

マイカー利用

阪神高速道路、東大阪線、法円坂または森ノ宮出口からすぐ。大阪城公園駐車場(有料200台)、または森ノ宮駐車場(有料98台)へ。駐車時間は24時間可。お城ファンにとっては、歴史博物館も近く大阪城により近い前者が便利。

※本ページでは、江戸時代以前は「大坂城」とし、明治維新後は「大阪城」とできるだけ表記しています。また「大阪城天守閣」「大阪城公園」は固有名詞です。

城ファンの気になるところ (36)

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    大坂城(大阪城)は現存遺構が大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財があるぞ。「大手門」「塀3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)」「多聞櫓」「千貫櫓」「乾櫓」「一番櫓」「六番櫓」「焔硝蔵」「金蔵」「金明水井戸屋形」「桜門」。この内、毎年秋(11月)になると3日間限定で「大手門」「多聞櫓」「千貫櫓」「金蔵」などが特別公開されるぞ。

    ( 細川ガラシャ)さんより

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    徳川時代の土台に鉄筋コンクリートの城と嫌われがちだけど、大阪市民にとっては太閤秀吉の城。豊臣時代・徳川時代の天守閣がいずれも30数年、現在の天守閣が70年以上ともっとも歴史が長いんだぞぉ。

    ( 城の観光好き)さんより

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    大阪城の本丸南側は、豊臣大坂城時代から空堀になっているがこれには諸説あるそうな。現地ガイドさん曰く、岩盤があるため掘り抜けないのだとか。その南側を守るため、1番櫓から6番櫓まで設ける堅固な作りにしたのだとか。ちなみに大阪城は、四天王寺から続く上町台地の北端にある。その高低差は大阪市内を歩くとよく分かる。

    ( 城の観光好き)さんより

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    大阪城の空中写真を見ると、どうも東の守りが弱いように思えるが、実は大和川が流れていて天然の濠になっていた。宝永元年(1704年)に堺の方へ流れを変えるよう付け替えたそうな。旧大和川は今も水路のようなかたちで残っているらしい。

    ( 城の観光好き)さんより

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    ついに東外堀が完全とはいかないが復元され、次は建物の復元かと思いましたが大阪城へ行ってみて道がコンクリートで舗装されたのを見ると夢のまた夢かと思った。あの本丸の三層の櫓が三つも連ねた勇姿などはもう再現されないのか。

    ( 岩峯慎一)さんより

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    大阪城は植物が豊富。植物園として巡っても面白いかも。

    ( 城の観光好き)さんより

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    天守閣内の展示は随分良くなった。じっくり見れば1時間はかかる。中でも豊臣大坂城と徳川大阪城の模型は必見かも。

    ( 城の観光好き)さんより

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    大阪城の北西すぐにある府立女性総合センター(ドーンセンター)横には、豊臣時代の大坂城石垣が地上に復元保存されてるぞ。

    ( 城の観光好き)さんより

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    大阪城は桜の綺麗な城としても有名です。花見スポットは、梅林をぬけて石垣を登った所が一番きれいだとおもいました。

    ( 山県三郎兵衛)さんより

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    豊臣大坂城の総構遺構が踏査により確認できます。城南方の道路沿いを歩けば、道路の起伏により確認できます。天守が資料館になっています。

    ( ume)さんより

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    1999年春になって市内建設現場より刀の鞘が大量に出土しました。刀狩などで得たものを城郭に利用していた模様です。

    ( 城の観光好き)さんより

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    16世紀に浄土真宗本願寺派により石山本願寺として最初の築城がなされる。17世紀末葉に豊臣秀吉により、近世城郭としての姿を整える。大坂の陣による落城後、17世紀初頭に徳川幕府(二代秀忠)により修築される。

    ( ume)さんより

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    カラクリ太閤機を見ているとあっという間に時間が過ぎてしまうので注意しましょう。

    ( 局長)さんより

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    二の丸南東、玉造口の脇(巽・丑寅櫓下)にある帯郭には、なぜかヘリポートがあります。

    ( 三箇サンチョ)さんより

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    いつだか忘れたけど大阪城祭りがありますよ。私、淀君役ででました!

    ( お蘭)さんより

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    天王寺区真田山町の真田山公園付近は、大阪冬の陣で真田幸村がこもった真田出丸の跡。同所の三光神社には、幸村公銅像と真田の抜け穴があります。そこからすぐ北側の空堀町は大阪城三の丸の外堀の名残りで、豊臣大阪城の規模の大きさを感じさせてくれます(ここも大阪城内)。三の丸内に設けられ秀頼胞衣を埋めたと伝わる玉造稲荷神社もあり、大阪城を訪れられた際には、少しコ−スを変えても一見の価値有りの場所だと思います。交通はJR環状線・玉造駅下車10分程。また、天王寺付近には真田幸村戦死の地・安居神社や大阪の陣で家康・幸村の陣所となった茶臼山(天王寺公園内)があります。

    ( 大紀)さんより

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    大阪城の山里丸跡の奥のほうに行くと、淀君と一緒に自害した方たちの碑があります。木が茂っているのでわかりにくいのです。真田大助様やら、なにやら名前がかいてました。皆様方は気づかずに各地からきた大きな石をみてそのまま天守閣に行く坂道を登っていかれます。一度、石の後方の碑まで行かれてはどうでしょう。無念になくなられた方々を思って、こみあげてくるものがありますよ。ただ、手入れされてなく、汚い感じがして残念ですけどね。

    ( mieko muguruma)さんより

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    天守閣内の展示1Fのビデオコーナーで見たのですが、石垣を目を凝らして見ると『木下』とか小さく数字と文字が書いてあるそうです。数字は高さ、名前の意味は忘れました。もしかしたら、まだ見ぬ発見があるかも?

    ( きんさん)さんより

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    毎年、2月末の日曜日に大阪国際女子マラソンが行われます。それで大阪城がコースの一部になっています。長居陸上競技場をスタートしてしばらく北へ走ります。森之宮を曲がり、大阪城の玉造口から入って梅林の坂を下ります。内堀沿いを走り抜け、京橋口より出ていきます。そのまま御堂筋を往復して今度は京橋口の北側から入り大阪城外周コースを走り抜け、噴水を横目に森之宮へ抜けます。後は長居まで。

    ( 真田四郎勝頼)さんより

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    山里曲輪の淀殿云々については信憑性がありません。エピソードとしては捨てがたいので難しいところですね。場内にある13点の重要文化財のうち多聞櫓と千貫櫓はゴールデンウィークと文化の日あたりの一週間有料で内部に入れます。これは必見!

    ( おむすび)さんより

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    大阪城の井戸は4つ残っています。一つは小天守台に井戸屋形と共に現存する「黄金水井戸」。別名「金明水井戸」とも呼ばれるこの井戸は豊臣時代の大坂城井戸で秀吉が黄金を沈めた伝承がありますが、実際は徳川期になってから掘られたものです。二つ目は桜門枡形内にある「銀明水井戸」。この井戸は本来は陸軍師団司令部の東側にあったもので現在は水道水です。三つ目が西ノ丸庭園内に残る「城代屋敷跡井戸」。そして四つ目が二ノ丸六番櫓付近に残る「南城番衆小屋跡井戸」。こちらは、井戸自体は城番衆小屋の井戸跡なのですが、井戸枠が実は大手門下馬札の前にかつて残されていた「蓮如井戸」のものである事が大阪府教育委員会の手によって確認され、石山本願寺時代の遺構として残る数少ない貴重なものだそうです。

    ( 佐助)さんより

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    NHK大河ドラマで「秀吉」関係の連ドラがありました。その時、平成の大改修が行われ天守閣が綺麗になりました。それと平行して東外堀が掘り直されみごとに復活しました。大阪城があった場所?そこは石山本願寺が砦を構えていたところ、上町大地。そこに最初に目をつけたのが実のところ「織田信長」らしい。

    ( 左衛門佐)さんより

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    大阪城の前にあった石山本願寺について城というべきかどうか分かりませんが、大阪城公園内二の丸に石碑と説明文があります。遺構は全くありません。1496年8代法主蓮如が大阪に大阪坊舎を建てた。その後権力争いに巻き込まれ、1532年山科本願寺の焼き討ちにより、石山本願寺として本願寺の総本山となった。その後織田信長との石山合戦により石山から退去し雑賀へと移りました。

    ( 立川 卓)さんより

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    去る2月12日、寒気を衝いて大阪城に出陣、内郭(つまり外堀の内側)を軽〜く攻めましたのですが、一つ疑問が湧きました。それは、なぜ本丸南側の内堀だけ空壕なんだろう?という点です。豊臣氏大坂城の古絵図では本丸南側が空壕だったためでしょうか?、何れの書籍も徳川氏大坂城の南内堀が空壕である点に疑問を呈しておりません。南内壕が他とは不似合いに浅いにもかかわらず。そして同日、東内濠と南内壕の境目の石垣が眼に付き、どういう訳か?その遺構が気になり続けておりました。同じ遺構が南内壕と東西内濠の境目にも存在します。考え続けた結論が、これは『水戸違い』ではないのか!?という事です。

    境目の石垣、下段の天端は石敷きと見られ、上段(その上の低い石積み)にはオーバー・フローの流し口の様な切れ目もあります。であるならば、南内壕は元々空壕ではなくて水濠だったと!。すなわち南内濠の水面を東西北の内濠よりも高くするために、水戸違いが。また南内濠は、内濠の中で最も幅が狭い区画でもあります。如何なる理由で幅が狭いのか?は擱いて、その狭さを補うために水面を上げた(おそらく水深も大きくした)と考えれば、辻褄が合います。

    さて大阪城天守閣の東隣に大阪城内配水池がありまして、明治28年(1895)に大阪で初めて上水道が敷かれた折、桜宮水源地と共に設けらた施設です。さらに時代を遡り、大阪城内には旧軍の施設も設けられました。それらが建設される際、維新前の建築物を破却し、その廃材や残土を南内濠に捨てて埋め立てた可能性があるのではなかろうか?と存知ます。

    ( 一人称“俺”)さんより

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    大阪市立南大江小学校の西側には、通称「太閤下水」と呼ばれる秀吉時代に出来た下水(現在も使われている)が、のぞき見できるようになってるぞ。

    ( 美作)さんより

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    意外に知られていないネタをご紹介します。まず大阪城敷地内にある豊國神社内の「幸村桜」が一つ。太閤さんの銅像の前で写真を撮っていますが、この桜には誰も見向きもしません。「幸村桜」は信州・上田城の桜を豊國神社に植えています。もう一つは、大阪城の石垣ですが、裏側の石垣を良く見ますと、第二次世界大戦時に受けた砲弾の痕があります。

    ( モモママ)さんより

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    通天閣に登ると、大坂夏の陣の舞台「真田幸村VS徳川家康」茶臼山付近を観ることが出来ます。また、天王寺動物園内にある古戦場跡も。幸村が戦死したと言われている安居神社も近くにあります。

    ( モモママ)さんより

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    大阪城のすぐ西側、大阪府警本部建設の際の発掘調査で、豊臣時代の大坂城に、大規模な粘土層を利用した障子堀が発掘された。障子堀は静岡の山中城で有名。発掘当時の見事な姿が分かる写真が、大阪府警本部前に展示されている。

    ( 城の観光好き)さんより

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    大阪城の現存建物は金明水井戸屋形のみだが、豊臣大坂城唯一の現存物として確認されているものに、都久夫須磨神社唐門がある。秀吉とワタリとの関係を示す遺構としても注目され、豊国廟にも使用されていた数奇な運命を辿った建築物である。

    ( 佐助)さんより

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    夕方限定。とてつもなく美しい写真が撮れます。大阪城に向かうときの橋を渡る直前に、木がポツポツ植えられた広場(?)があります。そこでカメラを用意!木の枝に夕日が照るようになったら、大阪城をバックに撮影。できれば城は左端、又は右端が良いですね。

    ( 城好きの匿名希望)さんより

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    大坂城の見所は何と言っても石垣だと思います。圧倒される。
    伊賀上野城の方がすごいのかもしれないが。。
    城内に淀君と秀頼公の自刃の地(墓)がありました。
    今残っている城郭のほとんどは、徳川期の大坂城何ですけどね。

    ( 城好き中学生)さんより

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    幕末の大坂城古写真を見て、すごいなーと思う。今、外国からも多くの観光客が訪れているが、幕末の壮大な大阪城を知る者にとって残念な気持ちになる。2015年5月24日に「大坂城、幕末から現在の定点写真展」を個人で行います。少しでも大阪にもこんな凄い城があったことを知ってもらえたらと思っている。

    ( 幕末大坂城復元を夢見る者)さんより

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    スケールの大きさに圧倒されました。
    秀吉ファンとしては、地下に眠る秀吉の大坂城が気になります。

    ( kojji)さんより

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    大阪城の大手多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵が、平成28年1月9日(土)〜平成28年 6月5日(日)までの半年間、長期特別公開されます!

    ( shirofan)さんより

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    ライトアップの照明デザインは、ライトアップの第一人者といわれ、横浜ベイブリッジや姫路城を手がけた石井幹子氏によるもの。昼もさることながら夜も美しい姿が見られます。城ではそのほか、上田城の夜桜ライトアップを手がけている。

    ( shirofan)さんより

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    現在の本丸にて昭和59年(1984)発見の豊臣大坂城の詰ノ丸石垣の公開施設が、いよいよ2019年、整備工事に着工して、2020年度の完成を目指すそうです。これは楽しみです。

    ( 日吉)さんより

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