写真:岡 泰行
西宮砲台の歴史と見どころ
幕末に外国船の脅威に対抗するため大阪湾防衛のため築かれた西洋式の砲台で、西宮市内ではここ西宮砲台と東に1.3kmの距離に今津砲台があった(西宮・今津は幕府直轄領)。江戸幕府は、海防のため約1,000基の台場を築かせたが、そのうち大阪湾を守る台場は約100基あり、西宮砲台と今津砲台は西宮港・今津港を守る役割があった。
西宮砲台は、文久3年(1863)から建設がはじまり、慶応2年(1866)後半に完成を迎えた。西宮市郷土資料館によると、砲台は19世紀にヨーロッパで使われていた「マルテロ・タワー」と呼ばれる形で、勝海舟門下の佐藤与之助が設計を行った。このマルテロ・タワーで現存するのは西宮砲台と和田岬砲台のみだそうだ。その構造の名称は中心部の大砲を据える円筒形の建物を「石堡塔(せきほとう)」といい、それを囲む防御壁の外郭とで構成されていた。
石堡塔は高さ約12m、直系約15mで花崗岩の石材で築造され、外壁は薄墨色の漆喰が塗られている。内部は木造2階建で1階は火薬室と冷却のための井戸があり、2階に大砲が設けられていた。窓は12あり、そのうち、北側は連絡や灯り取り用途で、ほか11窓から大砲を発射する仕組みだ。屋上にも大砲を置くことができたと云われている。石材は運賃が安く石材の良い瀬戸内海の島々から海路運ばれた。
外郭は、石堡塔を守るための土塁で、石堡塔を中心とした円形で造られていた。星形と円形との2種類があり、西宮では築造を急ぎ円形が採用されたらしい。外郭の直系は約77m、高さは約4m、下部を間知石と呼ばれる石垣で覆い、上部は土塁で構成されていたという。現在は、西側に間知石と多少の土塁の起伏が見られる。また北東にある児童公園に、石材が円形の弧を描くかたちで残されている。この両者は同じ円周上にある。西洋式砲台で石堡塔と外郭(一部)が確認できるのは、西宮砲台のみとなっている。大正11年(1922)に国指定史跡に指定されている。
上写真と同一円周上にある、北東にある児童公園に残る弧を描く外郭の痕跡
石堡塔で使用されていた石材。周囲の石には、江戸末期から明治に使われていたCタイプの矢穴痕も確認できる
西宮砲台は、実際に使われることは無かった。明治17年(1884)に火災に遭い内部を焼失、昭和9年に室戸台風で被害を受け昭和11年に修復された。その後も昭和49年には大々的な修復工事がなされ内部は鉄骨で補強された。余談ながら、現在、砂浜の上に建っているが、この浜は「香櫨園浜」といい、毎朝、この浜まで散歩している西宮に住む義理の母に話を伺うと昭和30年頃は、海水浴場となり賑わっていたらしい。西宮砲台は屋上がラムネを販売したりと納涼の場所となっていたが、すぐ近くにプールができて後、昭和40年(1965)に海水浴場は閉鎖された。
参考文献:『御台場築造 ─西宮・今津の砲台─』(西宮市郷土資料館)、『日本城郭大系12』(新人物往来社)、現地解説板
西宮砲台・今津砲台の資料
西宮砲台指定100年記念、西宮市郷土資料館の特別展示図録『御台場築造 ─西宮・今津の砲台─』が良い。御台場築造に関する絵図や文書などの史料をもとに、構造や築造のディテールが見えてくる。西宮市郷土資料館で販売されている。
西宮砲台の撮影方法
西宮砲台は南向きのためさほど撮影に苦労はしないが、砲台の北側(防波堤の内側)の児童公園内の外郭石列は、曇天の方が撮りやすい。
西宮砲台の関連史跡
今津砲台跡
今津砲台跡も東へ約1.3kmの距離にあるので見ておきたい。といっても現存はしておらず、その跡地に今津砲台の石材で建てられた石碑「今津海岸砲台記念石」がある。今津砲台は大正4年(1915)に石堡塔が解体され、昭和4年(1929)に外郭が工場建設のため消滅した。現在、跡地には共同住宅が建っている。石碑は福應神社(ふくおうじんじゃ)に残っていたものが移設された。小豆島から運ばれた花崗岩で、石の両サイドには、石の結合のためチギリの加工が見られ、右上には矢穴列が見られる。また、今津砲台跡からさらに道なりに南下すれば人口島となるがその公園に、甲陽園から出土した大坂城の残念石(刻印石)が屋外展示されている。
今津灯台と大関
江戸積酒造地として発展した今津は、樽廻船の出帆地として栄えた。今津灯台は文化7年(1810)、「大関」醸造元である今津の長部家五代目、長兵衛によって今津港に建てられた灯台で、その後、六代目文次郎が再建した。高さ約7.6mあり現在も使われている現役の灯台だ。西宮市郷土資料館には1/10の精巧な模型展示がある。灯台周辺には福應神社御旅所の石碑も建つ。余談ながら、今津砲台の石材を残していた福應神社(ふくおうじんじゃ)は、西宮神社(毎年、福男選びがある)、越木岩神社(大坂城の石丁場跡)とともに「三福神」と呼ばれている。また、大関の資料館「静和館」は、江戸時代に建てられた古民家を移築したものなので、時間があったら見ておこう。
古写真や絵図などで見ると西宮砲台は、砲台の塔を中心にして総径75mの円形の土塁(前面下部は石垣)で囲まれていたり、和田岬砲台も、砲台の塔を中心にして星形の土塁(東西約60m、南北約70m)で囲まれていたようですね。
北海道において、砲台や台場のあった場所ついて私の知る限りでは、函館に五角形の弁天岬台場(現在、函館ドックがあり遺構はナシ)、江差町のかもめ島の台地の上にある徳川幕府砲台跡くらいでしょうか。砲台とは関係ないですが、ここには戊辰戦争中、江差沖で嵐のため沈没した開陽丸(鉄筋コンクリート)が復元されています。
( まさ@札幌)さんより
西宮には立派な円形砲台が残っていますね。完成後 空砲2発を試射すると硝煙が内部に充満してとても実戦には使えないことが分かったとか。
( 山Pon)さんより
『御台場築造』によると、砲台は、江戸時代は「台場」といい、幕府が関与したものを「御台場」、明治以降に陸軍で使用したものを「砲台」というのだとか。
( 真昆布)さんより