写真:岡 泰行
感状山城の歴史と見どころ
羅漢の里からの登山口にポストのようなものがあり、自由に持ち帰ることができる感状山城の縄張り付きのパンフレットがある。これを必ずGETしよう。
[左右衛門 (2003.05.10)]
感状山城の撮影方法
紅葉が多いので秋がよい。ただし登口のある羅漢の里公園が入場料を取っているかも知れません(通常は無料)。
[吉田 豊太郎 (1999.08.12)]
感状山城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る感状山城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。感状山城の関連史跡
羅漢の里公園の奥に「瓜生羅漢」があります。少し足を伸ばすと北に「三日月藩陣屋跡」(現在は発掘工事中で将来的には整備復元されるらしいです)、そこから東に向かうと「上月城跡」に出る。なおそのまま千種川に沿って南下して行くと「赤穂」まで行けます。または、近い城では、光明山城、大島城、白旗城、浅野陣屋など。
[吉田 豊太郎 (1999.08.12)]
[左右衛門 (2003.05.10)]
感状山城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
「相生ステーションホテル」駅に隣接でシングル4,800円から。相生に泊まれば、利神城のある平福、また、赤穂へのアクセスも良い。また、付近には山城も多いのでベースキャンプにするも良し。
[左右衛門 (2004.01.01)]
感状山城は瓜生城とも呼ばれ、鎌倉時代に、瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられています。その後、南北朝・室町期になると、守護赤松氏一門の居城となり、建武三年(一三三六)には新田義貞軍の進攻に対し、赤松円心の白旗山城に呼応した赤松則祐が、この城にたてこもって防戦し、その戦功により足利尊氏から感状を与えられ、感状山城と呼ばれるようになったと伝えられています。城郭の構成は、連郭式・階郭式の縄張で、典型的な戦国山城の地取りとなっており、山頂部を中心に総石垣造りで、建物跡と思われる礎石群が盛時のまま残されています。
(現地案内板より 相生市教育委員会)国指定文化財(平成八年三月二十八日指定)
( 吉田 豊太郎)さんより
相生の矢野荘北に位置する感状山の山頂に広がる総石垣造りの山城。高低差を利用した二つの部分からなり、かなり大規模な縄張りを有している。
( 吉田 豊太郎)さんより
縄張りの下部は物見岩・倉庫跡・出曲輪・3曲輪等の割と広めの曲輪で構成されており、見所は物見岩からの矢野荘の(色はもちろんの事、1m未満の低い石垣で三分割された広大な3曲輪や、大手門跡脇の小曲輪にある溜井戸(現在も水がある))など多数。また曲輪内をよく見ると多数の礎石が散在しており、かつての建物の大きさを知ることが出来る。しかしなんといっても感状山城の最大の見せ場は縄張り上部にあり、物見岩からもその曲輪郡が見て取れる。上部へは3曲輪脇から切り立った崖状の岩山を登っていくと辿り着け、そこは南曲輪郡・南2曲輪・北2曲輪・1曲輪・北曲輪郡・帯曲輪からなっている。見所はやはり五段に並ぶ南曲輪郡の石垣で、高さは1〜2m程度しかなく石も小ぶりなのだが、それでも曲線に積み上げられた石垣が何段も連なっている様は壮観である(1曲輪の北東部にも五段の北曲輪郡があるのだが、木々が茂っていて見通 しが悪くわかりにくい)。
( 吉田 豊太郎)さんより
1・2曲輪にも礎石が散在しており、地面が剥き出しなのでよりはっきりとわかる。また排水用の暗渠らしい石組の溝等も見られる。登る上で注意する事は、1〜2曲輪は木々が伐採されているので風が強いため3曲輪で汗が乾くのを待ってから登るのが正解だと思う。
( 吉田 豊太郎)さんより
通説では鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築城、以後は赤松氏一族の支城として機能し、建武3年(1336)に新田義貞の進攻を白旗城と共に防いだ事により足利尊氏から感状を与えられて感状山城と呼ばれるようになったという。天正5年(1577)に羽柴秀吉の上月城攻めの際に落城し廃城となる。
注)経歴の不明な点が多い城郭で、上記も地元の地誌や伝承を元にした通説であり推測の域を出ていない。
( 吉田 豊太郎)さんより
羅漢の里公園の入口手前に御土産物店がありますが中に入った事はありません。
( 吉田 豊太郎)さんより
「感状山」の山は地元では「かんじょうざん」と濁る発音。城名は「かんじょうさん」または「かんじょうせん」と呼ばれることが多い。
( 左右衛門)さんより