写真:岡 泰行
彦根城の歴史と見どころ
彦根城(ひこねじょう)は、井伊の赤備えで知られる井伊家の城だ。滋賀県彦根市の琵琶湖のほとりにある。国宝の天守をはじめ、現存櫓や実戦的な縄張りなど、彦根城の見どころや歴史をその秘密も交え紐解いてみよう。
彦根城の歴史
現存12天守に数えられる、国宝天守を有する彦根城。築城したのは、井伊直継(後の直勝)である。井伊氏は元々、遠江国井伊谷(いいのや/現・静岡県浜松市北区引佐町)の国人領主だった。17代(24代とする説もあり)当主の直政が徳川家康に小姓として仕え、のちに「徳川四天王」のひとりに数えられる重臣となった。旧武田家臣団の「赤備え」を受け継いだ直政は軍略にすぐれ、「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
豊臣秀吉が後北条氏を降した後に行った宇都宮仕置(関東・東北の大名配置)により、家康が江戸に移封されると、井伊直政は上野国箕輪城12万石に取り立てられた(のち高崎城に移る)。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、家康のもとで東軍軍監として島津豊久を討ち取るなどの活躍を見せるが、退却する島津軍の銃弾を受け負傷してしまう。
この関ヶ原の戦いの功により、井伊直政には石田三成の旧領、佐和山15万石が加増された(上野国内の3万石と合わせて18万石)。これは、豊臣家を始めとする西国大名を抑えるため、京を扼する場所に徳川一の重臣を置き、備えさせたものとされている。
新たに彦根山に築城
井伊直政は山城であった佐和山城を廃し、新たに城地を探していた。一度は、佐和山の北西、琵琶湖湖畔にあり、六角氏や浅井(あざい)氏の城があった磯山に決める。しかし、前述した鉄砲傷が悪化し、慶長7年(1602)に死去してしまう。跡を継いだ直継はまだ13歳であったため、後見役として家老・木俣守勝が藩政を支えた。守勝は家康と相談の上、磯山築城案を白紙に戻し、改めて彦根山(金亀山)に定めた。彦根山は西に琵琶湖、北に松原内湖が控え、防御と水運の面で佐和山や磯山よりふさわしいということが、理由としてあげられたという。
慶長8年(1603)、築城開始(1604年説もあり)。このとき、直政の女婿、松平忠吉や松平忠利、石川康道など十数家以上の大名(諸説あり)が、家康の命により参加している(天下普請)。慶長11年(1606)には、天守や主郭部分の石垣など主要な部分が完成した。工事はその後も続いたが、慶長19年(1614)に大坂冬の陣が起きたため一旦中断されている。
初代藩主は井伊直孝
大坂冬の陣には、井伊直継に代わって異母弟の直孝が出陣した。直継は病弱であったと伝えられ、同じ頃に発生した家臣団の分断を収められなかったことから家康の不興を買ったとも言われている。直孝は緒戦の真田丸の戦いで大損害を出すなどしたが、先鋒として木村重成らを討つなどの功績を認められ、正式に彦根藩主の座に就くことになる。一方、直継は上野国安中藩3万石を与えられ、名も直勝と改め彦根を去っていった。
大坂の役で豊臣氏が滅亡し、元和偃武(げんなえんぶ)の世になった元和元年(1615)、直孝の指揮の下、城づくりが再開され、7年後に一応の完成をみた。直孝は江戸幕府3代将軍、家光の後見役(大政参与)に任じられるなど幕閣の中心を担い、寛永10年(1633)には35万石に加増されている。井伊家はその後も、5名の幕府の大政参与・大老を輩出している。その中で最も知られているのが15代藩主、井伊直弼(なおすけ)であろう(大老・直弼と安政の大獄については後述)。
桜田門外の変で直弼が暗殺されると次男の直憲が跡を継ぐが、彦根藩は10万石の減封に処せられた(後に、禁門の変での功により3万石回復)。大政奉還後の彦根藩は薩長側に立って行動し、戊辰戦争でも新政府軍に加わっている。井伊家は後に伯爵として華族に列した。
明治から現代
明治になると、明治6年(1873)に出された廃城令もあり、各地の城の多くが取り壊された。彦根城も取り壊しが決まっていたが明治11年(1878)、明治天皇が北陸行幸の帰りに彦根を通りかかった際、奏上を受け保存を命じたため今日まで残ることとなった。奏上したのは、随行していた大隈重信という説と、立ち寄った福田寺(ふくでんじ・滋賀県米原市)の住持に嫁いでいた天皇のいとこ、かね子という説がある。余談ながら、福田寺は戦国時代、一向宗の拠点であり、城郭(長沢城)もあった。国指定名勝の「福田寺庭園」には、浅井長政が寄進し、小谷城から移築したとされる書院が今も残る。
昭和26年(1951)、城跡が国史跡に、天守などは重要文化財に指定された。天守、附櫓、多聞櫓は翌年、国宝としての再指定を受けている。昭和31年(1956)、城跡は国の特別史跡となった。昭和32年(1957)からは3期に渡り「昭和の大修理」が行われ、この間、馬屋が重要文化財に指定された。平成5年(1993)からは、約3年半をかけ「平成の大修理」が行われた。平成4年(1992)に世界遺産の暫定リストに登録されている。
平成19年(2007)、「国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクターとして登場した「ひこにゃん」。由来は、井伊直孝一行が鷹狩りの帰りに、武蔵国世田ヶ谷村(現・東京都世田谷区)の弘徳院という寺にさしかかった際、門内から白猫が手招きをしたため立ち寄ったところ、雷雨を逃れたという伝承に基づいている。直孝は寺に寄進し、江戸における井伊家の菩提寺とした。直孝の死後、その戒名から「豪徳寺」と改名され今に至る。この白猫のエピソードは招き猫の発祥説のひとつとなっている。なお、豪徳寺を含む一帯は、かつての世田谷城の跡である。
井伊直弼と安政の大獄
13代藩主、直中の14男として生まれた直弼。控え屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」(後述)に暮らしながら、他家との養子縁組を待つ部屋住みの身であった。この頃、茶道、和歌、兵学などの学問にも勤しんだという。中でも、国学は長野義言(後の主膳)に学び、師弟関係を結んだ。
弘化3年(1846)、兄である14代藩主直亮(なおあき)の養子となり、嘉永3年(1850)、直亮の死とともに家督を継いだ。藩政刷新に取り組む中、義言を藩士に取り立て、側近として重用した。在国中は領内を積極的に巡検し、地元では今も名君として慕われている。
嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航以来、幕府は開国と攘夷の狭間で揺れていた。同時に、13代将軍・徳川家定の継嗣問題でも、紀州藩主、徳川慶福を推す「南紀派」と、一橋慶喜を推す「一橋派」が激しく対立していた。安政5年(1858)、家定の指名により直弼は大老に就任する。
同年、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと条約交渉を行っていた下田奉行の井上清直、目付の岩瀬忠震が、朝廷の勅許を得る前に日米修好通商条約に調印した。直弼自身は勅許を待っての調印をめざしていたとされるが、これを追認。抗議のために無断で登城してきた一橋派の徳川斉昭(前の水戸藩主で慶喜の実父)や福井藩主、松平慶永(後の春嶽)ら親藩大名の意見を退け、翌日、次期将軍として慶福(後の14代将軍・家茂)が決定したことを発表した。一方で斉昭や慶喜らには隠居や謹慎の処分が出された。
騒動は朝廷をも巻き込んだ。同年、孝明天皇から水戸藩に対し幕政改革を各藩に働きかけるよう命じる「戊午の密勅」が下されたことがきっかけであった。朝廷から幕府を飛び越え、ひとつの藩に対し直接指示が出されるのは幕藩体制を揺るがす異例の事態であり、幕府側は大いに反発。首謀者と見た梅田雲浜(小浜藩士)、橋本左内(福井藩士)などの捕縛を皮切りに、大名やその家臣、公家、幕臣など多くが弾圧された。その中には、直弼の厳罰策に異を唱える幕閣も含まれていた。
万延元年(1860)、江戸城登城中の直弼を水戸藩脱藩浪士と薩摩藩士の合わせて18名が襲撃し暗殺した(桜田門外の変)。直弼の下には襲撃が迫っているとの情報がもたらされていたが、ふだんどおりの行列だったという。直弼の死をもって安政の大獄は終わりを告げ、一橋派が復権することになる。
直弼とともに弾圧を主導した長野義言(主膳)も文久2年(1862)、直弼の跡を継いだ直憲の命により斬首されている。義言の前半生はよく分かっておらず、伊勢国出身とされることが多いが、熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある古城、長野城跡には、「長野主膳養育と修学の地」の石碑が建てられている。村に残る言い伝えによると長野氏は阿蘇氏の一族で、義言は肥後国八代(現・熊本県八代市)に生まれ、養子として長野家に入ったという。
参考文献:『日本城郭大系11』(新人物往来社)、『探訪ブックス城5近畿の城』(小学館)、彦根城公式Web Site
(文=mario 写真=岡 泰行)
彦根城の特徴と構造
国宝彦根城天守をはじめ、天秤櫓や太鼓門櫓などの現存櫓、抜群の防御力を誇る実戦的な縄張りに施された登り石垣に代表される石垣群や土塁や大堀切、大名庭園の玄宮園など、その見どころの多様さは全国屈指だ。この城が、一般の観光客からディープなお城ファンまで数多くの人を惹きつけるのは、魅せる姿と実戦向きという2つのポイントが両立していることが理由のひとつと言えるだろう。美しさも兼ね備えた彦根城の見どころを深掘り解説する。
彦根城玄宮園、鳳翔台の仕掛け
彦根城表御殿とは別に、二の丸にあるのが大名庭園の玄宮園とその御殿の楽々園がある。玄宮園は延宝6年(1678)、彦根藩4代藩主井伊直興が整備した回遊式庭園で、その景観は四季を通じて美しく、是非訪れておきたい。訪れた際は、是非、鳳翔台(ほうしょうだい)に足を運んでほしい。座敷に殿様が座った場所があり、同じ庭園の風景を観ながら抹茶をいただける。鳳翔台には臨池閣が隣接されているが内部を撮影する機会を得たので公開しておく。
彦根城の関連書籍
『近江佐和山城・彦根城』城郭談話会(サンライズ出版)が、最も詳しい。その歴史、縄張、石垣、登り石垣、現存建築物についてなどを解説。彦根城、佐和山城の縄張図も付いている。
彦根城の散策コース
彦根城は2つのルートを分けて散策すると良い。ひとつ目のルートは、表門橋から入り彦根城博物館を見て後、天守まで登城、その後、西の丸から北東の裏門橋を抜け玄宮園へ。ふたつ目のルートは表門橋から内堀を左回りで歩き、大手門橋、山崎口門跡などを見て、船町口門跡から出て城下町へ。夢京橋キャッスルロードを西進すれば、佐和山城の移築城門や旧彦根藩足軽組屋敷、南東へ行けば、外堀跡や外堀土塁がある(詳しくは上記Googleマップ参照)。
彦根城の撮影方法
天守は月見櫓跡付近から、また西の丸から狙おう。なお、天守の南面は近年、木々が成長し、あまりいいアングルが得られない。また、城下からは3か所、木々や建物の切れ目から天守が望めるポイントがある。詳しくはタクシーの運転手さんに聞こう。お城に登れない足の不自由な方などを、そのポイントに案内しているそうだ。
彦根城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る彦根城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。彦根城の関連史跡
彦根城博物館と、大名庭園である玄宮園は外せない。
彦根城博物館
彦根城の表御殿跡に、古絵図や発掘調査などを元に「外観復元」して建てられた博物館。国宝の「紙本金地著色風俗図」や国の重要文化財「太刀 銘国宗(備前二代)」、井伊直政が関ヶ原の戦いで着用したと伝わる「朱漆塗二枚胴具足」など、井伊家に関する武具、工芸品、古文書など9万点以上が収蔵されている。また、能舞台は表御殿の現存遺構(再移築)。地下には音響効果を高めるための漆喰製の桝が発掘調査で出土している。博物館は表門橋を渡り彦根城の有料ゲート右側にある。
埋木舎
埋木舎(うもれぎのや)は、井伊直弼が青年期を過ごした屋敷。自らの境遇を、土に埋もれて見えない樹木になぞらえて自嘲的に名づけたとも言う。しかし直弼はここで武芸、茶道、国学など、さまざまな分野の修養に努め、この時代にためた力量が、後に大老となった時期に活かされることとなった。国指定史跡。佐和口を出て左手、中堀の面した場所にある。また、井伊直弼大老の銅像は、佐和口に入り玄宮園に至る道の右手に建立されている。
彦根城の城下町の景観は全国屈指
井伊家は、慶長の築城時に善利川を付け替え、初期の城下町を形成した。その後、元和寛永期の加増に伴い、武家地を増やす必要があり城下町を再編・拡張、現在見られる城下町の区画を形成してゆく。その点在する景観や見どころの多さは全国屈指と言ってよく、赤門と呼ばれる佐和山城の移築城門を有する宗安寺をはじめ、随所に見られる古い町並み、近年の整備を含め、城下町を丸1日散策しても充分愉しめる城となっている。
清涼寺
井伊直孝が父、直政の墓所として創建したもの。以後、井伊家の菩提寺となった。元は、佐和山城下で石田三成の重臣、島左近の屋敷があったと伝えられ、当時のものとされるタブの木が残っている(滋賀県彦根市古沢町1100)。
龍潭寺
元は井伊谷(遠江国)にあった井伊家の菩提寺。直政が遠江龍潭寺の僧であった昊天宗建(こうてんそうけん)を招き、佐和山の麓に創建したもの(滋賀県彦根市古沢町1104)。
近隣の城
彦根城とセットで攻めるべき城は石田三成の佐和山城。滋賀県は30分車でゆくと城に当たるといわれた地域。歴史の表舞台に登場する有名な城は以下の通り。
佐和山城(滋賀県彦根市)、安土城(滋賀県近江八幡市)、観音寺城(滋賀県近江八幡市)、近江八幡(八幡山)城(滋賀県近江八幡市)、小谷城(滋賀県長浜市)、長浜城(滋賀県長浜市)、坂本城(滋賀県大津市)、水口岡山城(滋賀県甲賀市)、水口城(滋賀県甲賀市)など。
周囲のマイナーな城は次の通り。
- 山崎山城跡(滋賀県彦根市清崎町):信長が岐阜から京に至る道として整備した「下街道」沿いにある。彦根市指定文化財。
- 宇尾(大宇)城跡(滋賀県彦根市宇尾町):浅井氏の家臣であった大宇(河瀬)高秀、秀則2代の城館があったとされる。
- 甘呂城跡(滋賀県彦根市甘呂町):近江佐々木氏の家臣、河瀬氏の城。
- 新海(新開)城跡(滋賀県彦根市新海町):六角氏の家臣、新開氏の居城。
- 高宮城跡(滋賀県彦根市高宮町):六角氏頼の3男、信高はこの地に入り、旧領主高宮氏に代わって高宮を称した。子孫は浅井氏の被官となったと伝わる。
- 肥田城跡(滋賀県彦根市肥田町):六角氏の被官だった高野瀬氏の城。高野瀬氏は後に浅井氏の家臣となった。
- 越川城跡(滋賀県彦根市三津町):肥田城の支城。高野瀬氏の家臣、久木氏の居城。
- 茂賀山城跡(滋賀県彦根市賀田山町):京極氏、浅井氏の家臣、小林氏代々の居城。関ヶ原の戦いの際、西軍に属していた小林正祐は、島津義弘が撤退するときに途中まで道案内を務めたという。また、この地は、神話の「金の鶏」伝説が残る。
- 蓮台寺城跡(滋賀県彦根市蓮台寺町):河瀬一族、蓮台寺氏の居城。
彦根城のおすすめ旅グルメ
近江牛
安土桃山時代の頃から飼育されていたといわれる食肉牛。「日本三大和牛」のひとつに数えられることも多いが、その3つには近江牛のほか、神戸牛、松阪牛、米沢牛、前沢牛などが含まれ、確定していない。
江戸時代、彦根藩は陣太鼓に使う牛の皮を幕府に毎年献上していた。このため、公式に牛の屠殺が認められていた。牛肉をみそ漬けにしたものは滋養強壮の「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、将軍や諸侯にも献上されていたという。井伊直弼の時代、殺生を禁じたため献上が行われなくなったことから、牛肉好きだった徳川斉昭の不興を買い、安政の大獄や桜田門外の変の遠因となったという(珍?)説もある。
現在は、「豊かな自然環境と水に恵まれた滋賀県内で最も長く飼育された黒毛和種」という定義と認証要件を満たしたものだけが「近江牛」を名乗れるようになっている。
(参考:近江肉牛協会 ・『近江牛』生産・流通推進協議会)
近江肉せんなり亭 伽羅
城下町を彷彿とさせる佇まいの中で食べる近江牛。肉をぜいたくに盛りつけた鉄火丼御膳やロースステーキ重、すき焼き、握りなどさまざまなメニューで近江牛を堪能できる店。滋賀県彦根市本町2-1-7(夢京橋キャッスルロード沿い)
鮒鮨(ふなずし)
琵琶湖で獲れる、ニゴロブナなどを原料とする「熟れ鮨(鮓)」。滋賀県に古くから伝わる郷土料理で、長期間保存したフナの塩漬けを食すもの。かなり独特な風味が特徴。
三成めし
びわ湖・近江路観光圏活性化協議会が、石田三成のエピソードにちなみ、「三成をイメージし、ゆかりの地であることを示すもの」を認定基準にご飯物からお菓子、ドリンク、清酒など多種多様な「三成めし」が作られている。いろんな取り合わせを楽しみたい。
彦根城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
彦根キャッスル リゾート&スパ
彦根城に最も近いホテル。5階「キャッスルビュー」のツインルームや、湯船に入ったまま天守が見られる「城見の湯」、近江牛など地元の食材を使った料理を供するレストランなどがそろうので、ぜいたくな「城旅」が堪能できる。ホテル前の石垣は、彦根キャッスルホテルが通年、自費でライトアップを行っている。春には桜、秋には紅葉と絶好のスポット。
東横INN彦根駅東口
上階の部屋から、彦根城の眺望が良い。天守までの直線距離は1.3km。望遠レンズがあれば天守をほぼ南側正面から捕らえることができる。
彦根城のアクセス・所在地
所在地
住所:滋賀県彦根市金亀町1-1 [MAP] 県別一覧[滋賀県]
電話:0749-22-2742(彦根城運営管理センター)
開館時間
彦根城・玄宮園:8時30分〜17時、彦根城博物館:8時30分〜17時(入場は16時30分まで)。
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線(JR琵琶湖線)、彦根駅下車、西へ徒歩10分。
マイカー利用
名神高速道路、彦根インターから国道306号線を西へ2.5km(9分)。
駐車場は3カ所あり、二の丸駐車場が最も近く便利。いずれも1日1,000円(普通車)
- 二の丸駐車場(滋賀県彦根市金亀町4-33) ←便利
- 桜場駐車場(滋賀県彦根市金亀町3-3030)
- 大手前駐車場(滋賀県彦根市金亀町4)
彦根城博物館は、能舞台は絶品。展示品は、井伊直政から続く井伊家ゆかりの武具など多数展示されている。
( 城の観光好き)さんより
天守南北面の初層屋根に二つの切妻破風があり(千鳥破風と思った)、破風内に大入母屋の軒先が走っているように見えるが、よく見るとニ層目の千鳥破風の真下にある軒先より低く、東西面の切妻破風の軒先きよりも高い位置にある。 さすが幕府普請、当時から3Dを意識したんでしょうな。
( 城山神々)さんより
彦根は「城があって当たり前」と感じるほど、歴史感あふれる町並。観光都市化と史跡保存を見事に両立している。縄張りが良く残り、寄せ集めといわれる建造物も要所要所に現存。庭園はあるし、表御殿も復元されるし、ここはまさに城郭博物館。
( 城山神々)さんより
彦根城天守は構造からすれば望楼型天守だが、初層の下見板・突揚窓に対し、ニ層目からは総塗籠・花頭窓となる点、入母屋・切妻・千鳥・唐、各種破風を多様し装飾性が高い点、内部に見られる狭間が漆喰で塗籠められているなど、意匠はわりと新しい(移築のためだろう)。古式構造に装飾重視の外観、中途半端も国宝の条件なのか。
( 城山神々)さんより
表御殿一部が外観復元されて博物館になっている。内部の能舞台は発掘に基づき再建されたもの。
( shirofan)さんより
彦根城は平山城の形式に分類される城だが、平地部の惣掘り、三の丸の石垣の配置の理路整然さに比べ、金亀山の山背をもろに利用している主郭部の荒々しさといったら…。正に最終進化の山城。戦国時代が全山を巡る切岸に残っている。比較的こじんまりとした主郭部のまとまりも最高に良い。
( 禄太郎)さんより
外堀から天守閣まで徒歩10分弱位。駅から一生懸命歩けば15分で着きます。入り口にも書いてありますが、ここに行ったら絶対天井を見てください。木の組み合わせ方が絶妙です。
( なゆ)さんより
彦根城の見どころは天守内部。さすが国宝、昔の木造建築が残されていて、うねった樹木の形をとどめた梁や、どこか懐かしささえ感じられるその空間、窓から光が差し込み、静かに時間が流れていました。天守内部の階段は急でちょっと怖いですが、それもまたいとおかし、です。
( 中村友美)さんより
♪ ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃん、にゃん、と城下町の店から可愛い音楽が聞こえてきます。彦根城のゆるきゃら、「ひこにゃん」の歌です。私が彦根城に行った2011年5月、あるフロアのとある窓からはひこにゃんが踊っていました。周りには人が大勢。人気なんでしょうね。
( ドラえもん)さんより
入ったところすぐにあるお土産コーナーで楽しめます。ここの商品ほぼ全種類買い上げました(笑)。上のフロアでは賤ヶ岳の合戦のことについて、いろいろ展示してあります。撮影禁止です(泣)。最上階、つまり天守閣からの下の眺めは言葉にできないくらいいい眺めです(感動)。
( ドラえもん)さんより
彦根城を見る上で最高な場所の一つ。城西小学校からグラウンドを挟んだ細い道から見上げると、正面からすごく大きく見えます。電線がかかってますがそれも味だと思えるポジションなので、観光に行く人は一度そこから見上げることをオススメします。辺りは城下町かつ防衛施設としての七曲がりなどがあり、そういった要素を見る上であればついでに見れる近さです。
( 城好きの匿名希望)さんより