有岡城(伊丹城)を訪ねて
JR伊丹駅のすぐ西側の公園は、有岡城の本丸跡。歴史の表舞台に登場した有名なお城だ。この城は、日本では珍しい「惣構の城」。ヨーロッパのお城のように城下町ごと、壁ですっぽり覆った城塞都市のことで、有岡城のほかに小田原城や大坂城が有名だ。
有岡城もその惣構のお城。荒木村重の居城で黒田管兵衛が幽閉されたお城で有名。伊丹氏を破って入城した荒木村重は信長の命により「伊丹城」を「有岡城」と改名し、現在ではこの2つの名前で広く知られている。
現在はというと、その中心部しか残っておらず、大部分は都市開発で失われた。当時を偲べる場所は、主に4ヶ箇所。中でも遺構がはっきりと確認できる2ヶ所を訪れた。JR伊丹駅前の本丸跡と、惣構の最北に位置する猪名野神社(いなのじんじゃ)だ。
本丸跡は、JR伊丹駅を降りてすぐ目の前で公園。昭和49年から51年に発掘された石垣と井戸跡、建物の礎石がひっそりと並ぶ程度で、その周囲にかなりの広さで空堀と土塁が周囲に復元されている。石垣は天正期の築城らしさを物語る墓石などが見られるのが特徴。
惣構の城
お城というと、その存在感が地域の中で何らかの形で感じられるもの。ここは都市開発で本丸のほぼ中心に鉄道を通したことと都市開発でなかなか、実感しずらいが、「惣構の城」をちょっと意識して見ることで、その規模が体感できる。
惣構最北に位置する「猪名野神社」は、毎年、春祭に流鏑馬神事が行なわれることで有名な三重県の「猪名部神社」と深い関わりがあるのだとか。ちなみに兵庫県池田市に行くと「猪名津彦神社(いなづひこじんじゃ)」、同県箕能市に行くと「為那都比古神社(いなづひこじんじゃ)」など同じ系列と思われる神社が点在している。一説によると奈良の大仏殿を建てた大工、猪名部氏に関連するのだとか。
話を戻して、惣構最北の「猪名野神社」には、有岡城の北端「岸の砦」があったところとされ、有岡城遺構として自然に残る唯一のものであろう長さ約20mほどの土塁(城壁)がある(写真下)。また、この神社の北側には当時の堀切がそのまま小道となって残り、惣構最北端がどんな形をしていたかが実感できる。
この小道(写真下)は、実は道の下に現在でも川が流れている。昭和初期まで川のままだったそうで、今はちょっとした散歩道。道幅は1.5mほどで、川というよりかは用水路といった規模。伊丹の北、池田にある池田池からの小さな川が延び、猪名野神社から城の惣構のアウトラインに沿って西に蛇行している。
「惣構の城」を想像するには、広大な舌状台地をイメージすると良く、伊丹城は北の山系から伸びる低い台地の南端に位置している。南北に走る伊丹産業道路に沿って高い所で10mほどもありそうな高い落差が見られ、その平地を流れる小川が「猪名野神社」の所で高低差をもろともせず台地を東から西へ寸断する形で横切っている。
猪名野神社の西側の道路も元はその川で、堀の役目があった。現地の古老が子供のころに見た風景をそこに見るかのような眼差しで話してくださった。写真の風景には清水橋という橋が架かっていたが、昭和初期に川が道路化され、橋があったことを石碑にして後世に伝えていた。今ではその石碑もどこかに資材として転用されたそうだ。かっぷくが良い白髪のその老人は、今でもその石碑を探し歩いているそうだ(現在は清水橋の名称はバス停として名残を留めている)。
台地の話をもう少し。東側は先の話のとおり落差があり、おまけに太い川もあって天然の要害。近年では家の立ち退きで新たな石垣と思われるものが見つかるなど、ちょっとした話題にもなっている。
西側はというと、ほんの2mほどの落差が多く、その段差を利用してうまく家屋が建ち並んでおり、その段差から城の外に向かって、なだらかな坂となって台地は下っていく。東側より西側の方がはるかに高低差が少ない、ということは城の弱点は西側。有岡城への街道は大坂口(南側)、比陽口(こやぐち、 西側)と主に2本で、信長は主にその比陽口から攻めた。現在の比陽口は車の往来が激しい片側2車線の広い道路になっていて、その名残は無いが、地形は現地に立てば納得できる。
有岡城本丸跡はJR知山線伊丹駅下車すぐ。猪名野神社へは本丸跡から北へ徒歩20分。猪名野神社からの帰りは、その西側の道路(惣構西側)を南に歩き、阪急伊丹駅に至るコース、徒歩15分がお薦め。1〜2mほどの段差を追って道なりに南下すれば、惣構の西側ラインを体感できる。
(文・写真:岡 泰行)
なお、惣構のラインや、その他の見どころは、下記のページとマップで解説しているので、同時にご覧いただければこれ幸いなり〜。