尼崎市立歴史博物館とは
尼崎市立歴史博物館は、尼崎市立文化財収蔵庫がリニューアルし2020年10月10日、博物館として新たにオープンした。昭和61年(1986)に歴史博物館を造る計画で尼崎市がひとりの学芸員を採用、それから34年の歳月を刻み開館を迎えた。前身は、平成21年(2009)から運営されていた尼崎市立文化財収蔵庫。尼崎城と周辺城下町の復元模型が見られた。また、尼崎市総合文化センター内に「尼崎市立地域研究史料館」があったが、この尼崎市立歴史博物館に統合され、同資料館の『地域史研究』などの刊行物や史料などは「あまがさきアーカイブズ」となり博物館内で閲覧が可能となっている。
尼崎市立文化財収蔵庫があった頃は尼崎城の再建天守もまだなく、かつての姿を知ることができる貴重な資料館のひとつだった。2018年年末からリニューアル工事に入ったため、2019年3月竣工の尼崎城天守再建時に同時にメディア露出しておらず、その存在を知らない人も多い。新しくオープンした博物館は古代から現代まで尼崎の歴史を知ることができる常設展示があり、尼崎城の歴史、本丸模型、本丸御殿の鬼瓦、鯱、尼崎城天守図、城下町の絵図など、尼崎城についての展示も充実、その理解を深めることができる。
博物館で見られる尼崎城関連のもの
尼崎市立博物館の建物は昭和13年に建てられた女学校の校舎で歴史建築物。最近まで市立尼崎高校があった。建物がある場所がずばり本丸の北端、その北東部分が天守台跡となる。余談ながら映画『ALWAYS 三丁目の夕日 ’64』でこの玄関を凡天堂病院の玄関として、また、教室は鈴木オートのひとり息子が率いるバンドが演奏する音楽室として使われたことがあり、その紹介も小さくパネル展示されている。
博物館の門内に屋外展示された尼崎城の石垣石。写真では少ないが結構ずらりと並んでいて一部の石で矢穴も確認できる。矢穴はそのほとんどがAタイプのもの。なお、門柱にも矢穴石が使われているがこちらはCタイプが混ざっているため、江戸時代の補修時のものかと思われる。
尼崎城天守閣跡の石碑。博物館の門柱を入ったところにある。この石碑の写真があまりネット上に無いのは、この場所にあった文化財収蔵庫に足を運んだ人が少なく、また、尼崎城天守再建時にリニューアル工事中でその敷地に立ち入ることができなかったからだ。
博物館は学校時代の中庭がある。この中庭に、石がぐるりと点在して置かれている。これは尼崎城の石垣石。学芸員さんによると、本丸跡から集めたとのことなので、本丸石垣と考えてよいが本丸のどこに使われていたかまでは分からない。また、刻印は無いが矢穴は散見されるとのこと。
本丸石垣石を最も接近して見られるのは1階の窓からで中庭は開放されていない。
尼崎藩主松平家の九曜紋が彫られた鬼瓦は、本丸御殿の北東にあった貴賓室の役割をしていた金之間の降棟のもの。廃城後に寺院に移築され残ったもので櫻井神社にある鬼瓦と同じ本丸御殿のものだが異なる建物のものとなる。また、尼崎市立歴史博物館の企画展で知ったが、この瓦とは別に、尼崎城主だった青山家は、掛川藩→尼崎藩→飯山藩→宮津藩→(美濃)郡上藩と、転封を繰り返したそうで、その重臣が尼崎城の瓦をずっと持っていた。これが維新を迎えた地、岐阜県郡上市の歴史資料館にあるそうだ。
精巧に製作された尼崎城の本丸模型がある。本丸は約100m四方の方形で、北東角に天守、ほかの3角には三層櫓が建っていた。虎口は東、南、西の三カ所設けら、本丸御殿があった。建築意匠でひとつ。古写真でも見られる隅櫓二層目屋根のデザインは、切妻破風と唐破風の大らかなカーブが特徴で、天守の屋根装飾ともリンクした(デザインとして踏襲された)尼崎城らしさががある。花頭窓の配置も美しい。
天守跡から現在の天守を探す。左手のタワーマンション手前に尼崎城天守の上階の屋根が見える。右手に見えるレトロな白い建物は、大正15年に建てられた旧尼崎警察署で震災後は空き屋。こういった写真を撮る時は、どこを見ているのかその範囲の意識は持っておいた方が良く写真に締まりが出る。天守跡から北西の城域と西三の丸までを大正期の建物とともに、といった具合だ。当時は西三の丸には武家屋敷があり西の外堀である庄下川への橋が掛けられていた。
なお、尼崎市教育委員会発行の富松城のA4二つ折りパンフが尼崎市立歴史博物館でGETできるのでお忘れなく。さて、天候も良いので、尼崎城の再建天守を撮影していくとするか。
尼崎市立歴史博物館は、午前9時から午後5時まで。月曜休館(祝日と重なる場合は直後の平日)。入館無料。尼崎城の再建天守から東へ徒歩5分(兵庫県尼崎市南城内10番地の2・尼崎城関連Googleマップ)。
(文・写真=岡 泰行)