写真:岡 泰行

尼崎城の歴史と見どころ

尼崎城(あまがさきじょう)は、元和4年(1618)に戸田氏鉄により築城された水城だ。徳川大坂城の西の守りという役割があった。戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名が藩主と務め明治維新を迎え、明治6年(1873)に廃城となる。その後、開発で姿を消していくが、2018年、西三之丸跡(尼崎城址公園)に天守が外観復元された。その歴史と特徴を紐解いてみよう。

尼崎城の歴史

「尼崎」という地名は、岬があり尼さんがいたことに由来する。尼崎城(あまがさきじょう)は現在の阪神高速があるラインが海岸線で当時は海に面していた。大坂の役の時、建部政長、池田重利が守った旧尼崎城があったが、これに変わる新城を築くため、元和3年(1617)、幕府は膳所城から尼崎に入部した譜代大名の戸田氏鉄のものへ新城奉行を派遣し、元和4年(1618)の春から新尼崎城の築城が開始された。

徳川大坂城の西の守りとなることが尼崎城の目的だ。大坂城からは12kmの距離があり、その支城としての位置付けとなる。尼崎城は巨大城郭と言っていいほど広大で、西は庄下川、東は大物運河までを占め、例えなら甲子園球場の約3.4倍、旧尼崎城(大物城)の10倍の広さがあった。

余談ながら、尼崎城が築城された時期は近畿において幕府による築城ラッシュで、元和元年に一国一城令、元和2年(1616)に淀城の修復、元和3年(1617)に尼崎城の築城、高槻城の修築、元和4年(1618)には新たに明石城の築城、姫路城の櫓修築、元和5年(1619)には、徳川大坂城の築城、江戸城の修築が発令されている。いずれも徳川または徳川譜代大名の城だ。

尼崎城は、5万石の大名としては大きすぎる城だが、京都や大坂を中心に動いていた政治や経済を考えると、尼崎は家康にとって物流と西国大名を抑える拠点となる。大坂と西宮を結ぶ中国街道(現在の国道43号線)を城内に取り込むかたちの設計にその思想が見てとれる。また、江戸時代に天守を持つ兵庫県内の城は、姫路城と尼崎城の二城のみなので、尼崎城が幕府から重要視されていたのが頷ける。

天守は、高さ18mの四層四階で本丸東北隅に築かれ、多聞櫓を連結し複合式天守とした。戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名が藩主と務め明治維新を迎えた。明治6年(1873)、廃城が決まり民間への払い下げや取り壊しが行われ、その後、残っていた堀も次々と埋め立てられ、石垣も護岸工事に使用され、尼崎城は姿を消した。

  • 明治6年(1873):天守以外の建物が払い下げられる
  • 明治8年(1875):城地も払い下げられる
  • 明治12年(1879):天守台や櫓台などの石垣が尼崎港の防波堤の修築に使用される
  • 明治17年(1884):本丸跡に城内小学校開校
  • 明治45年(1912):同小学校拡張のため北側内濠埋め立て
  • 大正末年(1926):他の内濠を開発のために埋め立て
  • 昭和34年(1959):第二阪神国道開通により東大手橋と西大手橋付近に残っていた石垣を除去
  • 昭和42年(1967):東の外濠の大物川埋め立て

水城の名城といわれた尼崎城の遺構を示す物は、弘化年間の図面や、古写真(加筆が多いため正確ではない)数枚のみで、これにより外観の推測ができる。これを元に尼崎にいた城郭画家、荻原一青画伯により史料にもとづいた復元図が描かれた。これらは外観鏡像復元された尼崎城天守の展示で見られる。

尼崎城外観復元天守

平成30年12月(2018)、ミドリ電化(現エディオン)創業者、安保詮氏が、尼崎城の天守を私産約10億円を投じて建設、尼崎市に寄贈した。「尼崎城分間絵図」(尼崎市指定文化財)などが元にされている。平成31年3月(2019)に、再建天守の一般公開が始まった。平成最後の築城となった。天守台は香川県小豆島の花崗岩を新たに使って築かれている。

(文・写真=岡 泰行)

参考文献:『尼崎市史 第2巻』(尼崎市役所)、探訪ブックス『近畿の城』(小学館)

尼崎城の特徴と構造

尼崎城の石垣石を探す

尼崎城址公園の復興石垣には、一部で尼崎城の石垣石が使われているらしい。尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』(中川雄三氏・佐藤 功氏)によると、外観復元天守の天守台とその公園(尼崎城址公園)にある復興石垣は小豆島から新たに運ばれた石で造られているが、その中の一部で、尼崎城の石垣石が使われている。
三ノ丸石垣が転用された尼崎城址公園の石垣
そのほか、尼崎城址公園に見られる矢穴石、城外に転用された矢穴石は、下記ページで紹介している。

本丸で使われていた刻印石「二つ串団子」

大物公園に屋外展示されている尼崎城の刻印石大物公園に屋外展示されている尼崎城の刻印石(二つ串団子)。本丸の堀で使われていた。地面に接している方が面。尼崎城では刻印石はこのほか数例しか無いらしい。これらの石垣石は、尼崎城址公園、寺町、市街地に残るものを上記ページで紹介している。

尼崎城本丸跡は明城小学校

尼崎城本丸跡は明城小学校尼崎市立明城小学校が本丸跡の南側で本丸御殿が建っていた。現在、校庭には、小さく再現した尼崎城本丸水堀と天守の模型がある。模型は昭和15年、明城小学校の教員と児童によって古写真をもとにコンクリートで作られた。平成25年(2013)に修復されている。小学校の校門を警備をしてられる方に声をかければ見せてもらえる。また、校舎の前にある二宮金次郎の銅像の台座は、尼崎城の石垣石で矢穴痕が見られる。なお、この背後(北側)の尼崎市立歴史博物館も本丸跡で、天守跡の石碑や精巧な本丸模型が展示されいる。

尼崎城址石碑

尼崎城址石碑明城小学校南西付近の歩道上には、尼崎城址の石碑がある。この石碑は昭和3年(1929)に第一尋常小学校校門前に建立されたものかと思われる。この付近は内堀と外堀を結ぶ縦堀のあったところで伏見門が付近にあった。なお、石碑は円柱型で、尼崎城の堀にかかっていた本丸太鼓橋の橋脚を使って作られていると伝わっているそうだ。

尼崎市立歴史博物館で尼崎城の石垣石や城郭模型など

尼崎城の本丸模型(尼崎市立歴史博物館)2020年10月10日に尼崎市立歴史博物館がオープンした。場所は明城小学校の北側で、尼崎城本丸跡の北東付近、つまり天守跡にあたる(尼崎城天守閣跡の石碑もある)。尼崎市立文化財収蔵庫がその前身。本丸の石垣石も多数屋外展示されており、博物館内では、本丸御殿の鬼瓦、鯱、本丸模型、尼崎城の絵図などが展示されている。入館無料。尼崎市総合文化センター内にあった尼崎市立地域研究史料館も統合され史料の閲覧も可能だ。

尼崎城の資料

現地パンフは2冊をGET

『尼崎城を知る』現地パンフ『尼崎城を知る』(製作:尼崎市)は、復元天守内等で配布されている。歴史沿革に加え、縄張りや天守、姿を消した尼崎城など、尼崎城を知ることができるパンフ。また同時に『寺町イラストマップ』もどうぞ。内容が実に良くトリッキーなデザインで面白い。全国の寺町でこういった形でまとめられたパンフレットを見かけたことがない優れもの。

書籍『尼崎城研究資料集成』

『尼崎城研究資料集成』『尼崎城研究資料集成』(尼崎市教育委員会)2020年1月発行。A4判 オールカラー印刷 全140ページ。尼崎城の絵図をはじめ、弘化4年(1847)頃に描かれた天守や櫓の立面図、現在の地図との縄張重ね合わせ図、また尼崎城跡で行われた発掘調査や城下町の研究成果を尼崎市教育委員会がまとめた尼崎城をつぶさに知ることができる貴重な一冊。

尼崎城の散策コース

尼崎城の東端の堀跡が北浜公園尼崎城の城域を知るには、その城域を知ると良い。東は北浜公園で東端の堀がそのまま公園となっている。西は庄下川。南北は、北は城址公園のある北側の通り、南は国道43号線付近となる。寺町から足を運び、復興天守、本丸跡に建つ博物館を訪ねると良い。写真は尼崎城の東端の堀跡「北浜公園」。城域に見どころを重ねると、東の北浜公園、西の外堀庄下川、尼崎城址公園(西三之丸跡・復元天守)、櫻井神社、明城小学校(本丸跡・本丸御殿跡)、尼崎市立歴史博物館(本丸跡・天守跡)、尼信会館(10時〜16時月曜休館)、加えて寺町となり、所要時間は徒歩約2時間といったところか(詳しくは上記Googleマップ参照)。

尼崎城の撮影方法

尼崎城の再建天守は、2018年11月30日に竣工、2019年3月29日から一般公開された。再建された場所は本来あった場所と異なる。弘化4年(1847)頃に描かれた天守の正確な立面図や絵図などをもとに、左右に連結する二階建多聞櫓の一部と共に外観復元されている。天守は当時と何が異なるのか、周囲のタワーマンションやビルを避けながら撮影するスポットとともに紹介する。

尼崎城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る尼崎城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

尼崎城の関連史跡

徳川大坂城東六甲石丁場の境界石(非公開)

徳川大坂城東六甲石丁場の境界石尼崎城本丸跡に建つ尼崎市立成良中学校琴城分校の敷地内に残る、徳川大坂城築城期に東六甲石丁場で使われていた境界石(非公開)。特別に見せていただいた。「これ上五丁四方 松平長門内 ○○○○○ 卯五月 十」と刻まれている。卯五月は寛永4年(1627)を指すらしい(尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』)。これは尼崎城ではなく徳川大坂城築城期のもので尼崎城本丸跡にある経緯は分かっていない。尼崎城が二度の震災で修理が必要になった時、その領地である東六甲石丁場から、残念石などを運び入れ、その際に持ってきたのではないかという説がある。文字入りの境界石は兵庫城付近にあるものとここの2つのみらしい。

櫻井神社

櫻井神社櫻井神社本殿の前に、戸田氏九曜紋入りの本丸御殿の棟瓦2枚と、尼崎城外堀にかかっていた橋の石杭(櫻井忠告の句碑)がある。棟瓦はその側面に「上料理之棟」と刻まれていることから、城主などの料理を作っていた場所の棟瓦とされている。本丸御殿は火事により焼失し翌年弘化4年(1847)の再建時のもの。

尼信会館

尼信会館の尼崎城復元模型寺町の南にある「尼信会館(尼崎信用金庫)」の2階常設展示で、尼崎城の精巧な復元模型と資料が展示されている。尼崎藩旧藩主櫻井家ゆかりの国の重要文化財「太刀銘守家」(桜井家の家紋「九曜紋」が掘られている)や、櫻井松平家の火縄銃、巨大な尼崎城平面図(尼崎市指定文化財)、尼崎城復元天守内でも一部が拡大展示されているがその原本「尼崎城分間絵図」(尼崎市指定文化財)がある。この絵図は城を内側と外側から描き実測寸法が記載されたもので巻物となっており、所有は櫻井神社で尼信会館に委託されている。尼信会館は、銀行が運営する資料館で世界のコインミュージアムも併設されてることもあってか、兵庫県下の藩札も展示されていて面白い。尼信会館は2001年の開館で無料で見られる。なお、表には尼信会館のプレートが埋め込まれた石碑があるが尼崎城の石垣石で、石垣に積んだ際の表を下にして使われている。

佐々成政の墓と寺町

佐々成政の墓尼崎城から西に徒歩8分、600mの距離に「寺町」という臨戦時に砦として機能する地域があり、藩政時代からの古い寺院が11か寺が残されその区割りも当時からさほど変わっていない。この寺町の法園寺に佐々成政の墓がある。天正16年(1588)に法園寺で切腹、ここが終焉の地となる。境内にある墓碑は複製で、本堂内に五輪塔が保存されている(非公開)。法園寺は尼崎城築城に際し、別所町から現在の寺町に移されたのだそう。観光案内所の話によると、法園寺の山門が空いているときはその五輪塔を見ることができる。余談ながら法園寺の前に、たこ焼き屋があるが、14個で200円というびっくり価格、コストパフォーマンスがすこぶる高いお店だった。

大物くずれ戦跡石碑

大物くずれ戦跡の石碑阪神大物駅の北側すぐの公園内に、大物くずれ戦跡の石碑がある(大物(だいもつ)とは地名)。戦国初期の応仁の乱、尼崎の地でも戦があり、三好元長、赤松政祐と戦い、細川高国勢が大敗、総崩れになり大物城に逃げ帰ったとされている。その後、細川高国は廣徳寺で切腹した。廣徳寺は尼崎城築城に際し、大物から尼崎の寺町に移転している。

尼崎城のおすすめ旅グルメ

尼崎名産の水飴

尼崎名産の水飴尼崎城復元天守のすぐ近くに、水飴の名店がある。「ヒノデ阿免本舗」といい、創業百余年。明治の初頭からある水飴の老舗だ。砂糖を使わない和のスイーツが楽しめる。お米を原料としていて、実にあっさりとした味わい。煮物などの味付けにも使えるとのこと。場所はちょうど、復元天守から櫻井神社に足を運び、西の外堀である庄下川にかかる開明橋を渡ったところ。店舗の外観も町屋造り風でどこか城を意識させる白漆喰。阪神淡路大震災を期に建て替えたのだとか(日曜・祝日は定休日)。余談ながら、開明橋の欄干には尼崎城の縄張りと城下町の町割がデザインされているので、ちらりと見ておこう。

現存最古の中華蕎麦

中華料理「大貫」本店この辺りの有名店と言えば中華料理「大貫(だいかん)」本店。大正元年の創業の現存で最古といわれる中華蕎麦店。創業から変わらない足踏みたまご麺の中華蕎麦や、長年追い足しされた醤油ダレで作られる焼飯が名物らしい。セットメニューは中華そばと焼き飯のサイズをそれぞれ選んで注文する。ミニを選んでも結構なボリュームがあり、味はすっきりというより、がっつり濃い目の醤油味だ。

そのほか、尼崎城周辺では飲食店は無いのだが、阪神尼崎駅の駅構内、または駅の北側にある中央商店街へ足を向ければ、いろいろな飲食店が軒を連ねている。寺町の帰り道などにどうぞ。

尼崎城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

阪神尼崎駅北側にビジネスホテルが少々。「ワイズホテル阪神尼崎駅前」、「都ホテル尼崎」など。ただ、神戸線の沿線では、西宮砲台や花隈城、さらに西進すれば明石城など巡るべき城が多い。この地は宿泊地というより通過点と捉える方が動きやすい。

尼崎城のアクセス・所在地

所在地

住所:兵庫県尼崎市北城内27 [MAP] 県別一覧[兵庫県]

電話:06-6480-5646(尼崎城址公園管理事務所)

開館時間

尼崎城址公園は散策自由。尼崎城天守の開館は9時〜17時(入城16:30)。天守内の展示は体験型もありちょっと面白い。なお、天守開館時間外でも、天守のすぐ側まで近寄ることができる。

入城料

一般・学生(個人)500円・(団体)400円
小・中・高校生(個人)250円・(団体)200円

休館日

月曜日(祝日の場合は営業、翌日休)・年末年始(12月29日~1月2日)

アクセス

鉄道利用

阪神電鉄本線、尼崎駅下車、徒歩3分。

マイカー利用

阪神高速3号神戸線、尼崎東ICから約5分(1.2km)、または、阪神高速5号湾岸線、尼崎東湾岸ICから約20分(11km)、復元天守前に有料駐車場(18台)有り。または、尼崎市立歴史博物館前の駐車場へ。

城ファンの気になるところ (8)

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    現在は、尼崎城址公園としてちょっとした公園。城としての建造物は復興土壁と復興石垣のみ。資料館はなく、城内小学校・中学校が本丸跡。小学校校内に本丸太鼓橋の橋脚を用いた石碑と、復興の模型がある。

    ( 半兵衛)さんより

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    城内小学校南西部の南向きの塀に尼崎城趾の石碑がありますが、これは尼崎城の堀にかかっていた橋の橋脚だそうです。

    ( 西山忠博)さんより

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    明治維新後に取り壊され、遺構が残っていない尼崎城ですが、最近、かつて外濠であった庄下川の堤防工事の際、石垣の一部が姿を現しました。場所は尼崎中央図書館の西に掛かる開明橋の南側たもとの左岸です。平成11年2月現在、工事の足場の影になってはいますが、向こう岸から見ることができます。高さは水面から1m位出ているでしょうか。何でも、昔の城の石垣の上に旧堤防を作ったみたいで、老朽化した堤防を改修しようとして、下から出現したらしいです。

    ( 西山忠博)さんより

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    関西では昔から馴染み深いミドリ電化(現エディオン)創業者の方が、尼崎城の天守を私産を投じて建設、尼崎市に寄贈する計画が起ち上がっているらしい。

    ( 半兵衛)さんより

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    復元される尼崎城天守は、尼崎市立中央図書館の北東に建設が予定され(実際の位置と異なる)、鉄筋コンクリート4層5階の外観復元。築城400年を迎える2018年の完成を目指すらしい。

    ( 半兵衛)さんより

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    最近は「尼崎」という地名は、あまり良いイメージは無いみたいだが(笑)、「尼崎」は色々な歴史的見所が多い地域なんだよ。

    この尼崎城、現在はまったく跡形も無く、わざわざ訪ねるほどの場所も無いんだよね。

    一部「尼崎城」を復元したといっても「復元」とも言えないレベルだし。
    復元する予算が無いみたいだね。

    ( 山は六甲 酒は白雪 )さんより

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    兵庫県尼崎市の阪神尼崎駅近くに、尼崎城天守が約145年ぶりに再建された。2019年3月29日から一般公開される。

    天守は鉄筋コンクリート造り5階建てで、石垣部分を含め高さ約24メートル。旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保詮(あぼあきら)氏(85)が「創業の地・尼崎に恩返ししたい」と約12億円で建設し、市に寄贈した。市は、市内外からの寄付金約1億円と国の補助金約1億円で内部展示を整えた。

    尼崎というと工場の街というイメージですが、歴史も古い街なんですよ。

    ( 山は六甲 酒は白雪)さんより

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    久しぶりに尼崎城を歩きました。以前は図書館横の復興石垣と、そこから北へ延びる西三の丸の復興石垣のみでした。本丸跡である小学校の石碑を見にいっていたのですが、その頃と比べると、尼崎城はずいぶん変わりました。まずその西三の丸の復興石垣の前の堀には、昔は水がありましたが、今はすっかり水をひいていないそうです。堀の浅さが露呈しているかのようで、これは少し寂しいと思っていたのですが、尼崎城の天守が再建されていて、驚きました。北側には水堀も再現されていてそちらは水がひかれていました。昔の図面は見たことがあったので、天守の意匠といいますか、唐破風などの切妻的な意匠を実際目にすることができて、ここに尼崎城らしさあり、と思いました。天守内は楽しく歴史を知ることができる最近の展示とった風景です。天守で時間を使いすぎました。寺町にも足を運び、各寺の威厳といいますか、尼崎にこんな大きな寺院があったのかと、意外な大きさに驚きました。次回は、新しい博物館にも足を運んでみたいと思います。

    ( カンダタ)さんより

城の情報

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