芥川仇討ちの辻

賤ヶ岳の七本槍の一人で伊予松山20万石、陸奥会津40万石の太守となった加藤嘉明の子、加藤明成の時代、加藤家家中に松下源太左衛門という1千石の武士がいました。この朋輩に早川某という武士がいましたが、ある日突然、暇を出されてしまったのです。心当たりのなり早川はこれは、きっと松下源太左衛門の企みによって主君が讒言を信じた結果だと思い込み、これを深く恨み、やがて病死してしまいます。その死の間際に早川は一子の八之丞を枕元に呼び、自分が死んでも仏事供養などはせず、松下源太左衛門の首を墓前に供えよと 言って世を去りました。

寛永15年(1638年)、会津藩主加藤明成はその不行跡から、家禄を召し上げられ、その息子の加藤内蔵助明友に新たに石見国吉永(島根県太田市南部)1万石が与えられました。この時、松下源太左衛門も家禄200石に減知の上、石見に赴きましたが、源太左衛門は妻に先立たれていたために、加藤明成の妾腹の娘を後添えとして妻にし、その妻との間に助三郎という子供を得ます。その後、松下源太左衛門は加藤家家中を去り、江戸で尾張家に仕官することとなったのですが、早川八之丞は松下が江戸に出てきていることを聞きつけ、寛文9年(1669年)、赤坂の宅に赴き源太左衛門を討ち果たしました。

これを聞いた幼い助三郎は親の仇討ちを心に決め、京の剣客について日夜剣を学びました。剣の腕もすこぶる上達したことから、助太刀の剣士と若党を従え、仇を求めて諸国を遍歴すること2年半、虚無僧に身を窶した八之丞が高槻城下で門付けする姿を若党が見届けたことから、助三郎一行は高槻に赴き、城外芥川宿で敵が夜明けに宿を立ち去るところをこの辻で助三郎は名乗りを上げて切りかかり、不倶戴天の仇を討ち取って、めでたく本懐を遂げました。この時、助三郎はわずか14歳、寛文11年(1671年)9月7日のことでした。この時、討たれた八之丞の懐からは、「自分は二人も人を殺した人間であり、仇を討たれて当然であり、討つ側に咎はない」と記した書状が出てきたのでした。この仇討ちは双方が武士道を貫いた美談として広く世間に喧伝されたということです。

(文=求馬)

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