芥川城の歴史と見どころ
石碑
現地で見るべきものは、「芥川城址」石碑一本のみ。
摂津芥川城の歴史
この芥川城は、鎌倉時代後期からこの地を支配した御家人芥川氏の館と考えられています。芥川氏はどうやら西国街道の芥川宿を根拠とした武士でした。応仁の乱の時には、周辺の三宅氏、吹田氏、茨木氏らとともに東軍に属しましたが、応仁元年(1467年)に西軍の大内政弘の軍門に下ります。以後、この系統の芥川氏の動向は歴史から姿を消してしまいます。
延徳2年(1490年)管領細川政元によって芥川に配置されたのは能勢因幡守頼則でしたが、この能勢氏が築いた芥川城というのは、この芥川宿近くの旧芥川城ではなく、ここから約3km北北西方向、芥川上流摂津峡にある標高180mの三好山にある城跡(芥川山城)のことを指すようです。また、この後、天文2年(1533年)に細川晴元が入ったのもこの山城だと考えられています。 以後、歴史に出てくる「芥川城」は基本的にはこの山城のことを指すと考えてよいようです。元々の芥川城はその後の動向はわからず、歴史の中に姿を消してしまっています。
(求馬・04.10.03)
芥川城の関連史跡
芥川仇討ちの辻
西国街道の芥川宿に「芥川宿仇討ちの辻」がある。江戸時代初期の仇討ちの美談の舞台だ。賤ヶ岳の七本槍のひとり、加藤嘉明の曾孫、助三郎が親の仇討ちで早川八之丞を高槻城下で討ち取った。討たれた八之丞の懐中には書状があり、「自分は二人も殺した人間であるため、討たれて当然であり旦つ、討った方に咎はない」とあったという。
周囲の城
知名度が高い城では、荒川山城、山崎城、高槻城、茨木城、勝竜寺城など。マイナーな城では今城(今城塚古墳)、開田城(土塁公園)など。
「芥川城」と記載されていたものは、三好山にある芥川山城のことを指している場合もあるのだとか。
( 半兵衛)さんより
芥川仇討ちの辻は少し食い違いになっていますが、ここをさらに西に進むと右手に日本たばこ産業(JT)の研究所の広大な敷地が広がります。敷地が終わったところで右折し、今度は敷地沿いを少し北上すると左手に高槻スイミングスクールがありますのでその手前を左折します。ここを進むと次の角で右手に城門のような大きな門のある民家がありますので、その南側の生垣沿いを進むと生垣の一部が少し窪んで、そこに「芥川城址」の高さ1mほどの石碑があります。
( 求馬)さんより