現地に何も無し。 [天晴れ与六殿 (1998.05.11)]
諏訪神社、龍宝寺(歴代玉縄城主の墓所がある)。 [天晴れ与六殿 (1998.05.11)]
住所:神奈川県鎌倉市玉縄 [MAP] 県別一覧[神奈川県]
JR東海道本線、大船駅下車、北口からバス、清泉女学院行き「植木」降車。または、大船駅から徒歩15分。東海道線大船駅近くにある、「フラワーセンター」の裏手。「植木」というバス停から丘を登ってください。「城廻」(しろめぐり)とい地名の住宅地ですが、小さな碑が建っています。
大船駅の北西側に玉縄という地名の残った小高い山があります。今じゃすっかり住宅地になり、玉縄城址の杭でしかわかりません。
( 天晴れ与六殿)さんより
玉縄城跡には、女子校が建ってしまっているんですよね。今考えたら、怪しまれたかもしれませんが(^^;; 、あの学校の中に玉縄城の模型があると聞いたので、電話して見せてくれませんか?と頼んだのですが、断られました……。
( 平尾)さんより
こうなったら、嫁さん探して、結婚して、女の子つくって、それを入学させて、父兄として堂々と見学だああっ……20年計画だな。
( よーすけ)さんより
関東一の要害として有名でしたが、今は城跡が女子校になっているので、当時にもまして難攻不落です(正門は反対側)。城跡の碑からさらに登ると女子校の裏門がありますが、当然関係者以外は入れません(事務所に頼めば見せてくれるかも。でも学校を作るときに山を削って整地してしまったので、ほとんど跡はない)。ただし、裏門横の路地を入っていくと、それっぽい、搦手風のくだり坂があります。
跡形もないのが残念です。聞くところによると、鎌倉市はいわゆる「旧鎌倉市街」の保存には熱心ですが、その分外側は派手に開発するそうです。むかし見た玉縄城址の「開発前の図」と「開発後の図」(どこで見たのか失念)の比較では、あまりの差にぼーぜんとした記憶があります。
玉縄城は永正九年北条早雲の築くところたり 大永享禄の頃は北条氏時之に居り天文初年より一族北条綱成居城す 天正十八年小田原北条滅亡の際城主氏勝降伏し後城は徳川氏の有となり、程なく廃城となりしものなり(碑文より)。
玉縄北条氏歴代の墓(裏山)、里見氏との合戦時の甘縄首塚、北条氏勝が徳川本多に下った時がっくりして渡れなかったというがっくり橋、江戸中期の新井白石領時の旧家(龍宝寺)、幕末の相模湾砲台としての玉縄城再開発計画などなど、エピソードは沢山ありますよ!
( Yorui)さんより
一番古くは、現龍宝寺のあるところは「七騎谷」といいました。鎌倉三代源実朝が甥公暁に殺された時、その配下7人が隠れていた場所だということです。ちなみにその公暁をとらえた長尾氏の居城は、玉縄の向かいの長尾台にありました。今は見る影もありませんが。謙信のことを思えば情けないことです。
玉縄築城後、この城は里見氏との合戦が多かったのですが、実は武田信玄も上洛挙行の際に囲んでおりますが、堅固でやぶれずそのまま打ち捨てられました。上杉謙信に囲まれたこともあったはずです。秀吉の北条征伐のおり、徳川家の本多忠勝に囲まれても落ちず、当代氏勝のおじで龍宝寺の住職に説得され開城になりました。関東三要害に選ばれる所以です。
玉縄城の情報を投稿
しまなみ海道に浮かぶ能島城。能島村上氏(村上水軍)の拠点だった城跡で、島全体が城だった。周囲の海は潮流が激しく、流れを知らなければ近寄ることもできない。岸には武者走りが掘られ、岩礁ピットと呼ばれる柱穴が残る。
大阪城は、大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財と壮大な石垣を有する。秀吉が築いた豊臣大坂城を包み込むように…
北条氏の本拠、巨大要塞、小田原城。相模国の西端にあり、南は相模湾、西は箱根連山を隔てて駿河国と接している。海と山を天然の…
大船駅の北西側に玉縄という地名の残った小高い山があります。今じゃすっかり住宅地になり、玉縄城址の杭でしかわかりません。
( 天晴れ与六殿)さんより
玉縄城跡には、女子校が建ってしまっているんですよね。今考えたら、怪しまれたかもしれませんが(^^;; 、あの学校の中に玉縄城の模型があると聞いたので、電話して見せてくれませんか?と頼んだのですが、断られました……。
( 平尾)さんより
こうなったら、嫁さん探して、結婚して、女の子つくって、それを入学させて、父兄として堂々と見学だああっ……20年計画だな。
( よーすけ)さんより
関東一の要害として有名でしたが、今は城跡が女子校になっているので、当時にもまして難攻不落です(正門は反対側)。城跡の碑からさらに登ると女子校の裏門がありますが、当然関係者以外は入れません(事務所に頼めば見せてくれるかも。でも学校を作るときに山を削って整地してしまったので、ほとんど跡はない)。ただし、裏門横の路地を入っていくと、それっぽい、搦手風のくだり坂があります。
( よーすけ)さんより
跡形もないのが残念です。聞くところによると、鎌倉市はいわゆる「旧鎌倉市街」の保存には熱心ですが、その分外側は派手に開発するそうです。むかし見た玉縄城址の「開発前の図」と「開発後の図」(どこで見たのか失念)の比較では、あまりの差にぼーぜんとした記憶があります。
( よーすけ)さんより
玉縄城は永正九年北条早雲の築くところたり 大永享禄の頃は北条氏時之に居り天文初年より一族北条綱成居城す 天正十八年小田原北条滅亡の際城主氏勝降伏し後城は徳川氏の有となり、程なく廃城となりしものなり(碑文より)。
( よーすけ)さんより
玉縄北条氏歴代の墓(裏山)、里見氏との合戦時の甘縄首塚、北条氏勝が徳川本多に下った時がっくりして渡れなかったというがっくり橋、江戸中期の新井白石領時の旧家(龍宝寺)、幕末の相模湾砲台としての玉縄城再開発計画などなど、エピソードは沢山ありますよ!
( Yorui)さんより
一番古くは、現龍宝寺のあるところは「七騎谷」といいました。鎌倉三代源実朝が甥公暁に殺された時、その配下7人が隠れていた場所だということです。ちなみにその公暁をとらえた長尾氏の居城は、玉縄の向かいの長尾台にありました。今は見る影もありませんが。謙信のことを思えば情けないことです。
( Yorui)さんより
玉縄築城後、この城は里見氏との合戦が多かったのですが、実は武田信玄も上洛挙行の際に囲んでおりますが、堅固でやぶれずそのまま打ち捨てられました。上杉謙信に囲まれたこともあったはずです。秀吉の北条征伐のおり、徳川家の本多忠勝に囲まれても落ちず、当代氏勝のおじで龍宝寺の住職に説得され開城になりました。関東三要害に選ばれる所以です。
( Yorui)さんより