写真:岡 泰行
小机城の歴史と見どころ
小机城の歴史について。築城の年代は明らかではないが、このあたりが開けた12世紀以降ではないかと思われる。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には同じく上杉氏の支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と推測される。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こしたとき、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の横浜市港北区新羽町亀の甲橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦ったが、文明10年(1489)に攻め落とされた。
上杉氏はやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、小机城は一時廃城となったが、大永4年(1524)に北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再興した。
小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後、軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすようになる。豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅びると、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として200名の知行を与えられ、5キロほど離れた台村(現在の横浜市緑区台村町)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じた。
小机城の縄張は、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築いているということです。城郭全体を二重の土塁と空堀でぐるりとめぐらす縄張で、後北条氏特有の築城法です。東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で、神奈川県内では茅ヶ崎城もその典型だということです。
城内には、本丸跡と二の丸跡という看板が立っていますが、城址の調査等の実績が少ないため、本当に本丸または二の丸だったのかは、まだ断定できないということです。
本丸の防備と敵の攻撃に対抗するための空堀は、小机城では堀上部の幅が12.7m、堀底の幅が5.0m、深さが12.0mとなっています。
(文:いわお)
現地で得られる資料
『小机城址ガイドマップ』が2018年2月に制作された。港北区役所、城郷小机地区センター、新横浜駅の観光案内所でGETできるぞ。
小机城の関連史跡
太田道灌が本陣を構えた城山、亀甲山が港北区新羽町、小机城の向かいにある。資生堂の白い建物があるが遺構は無いと見て良いかも。また、小机城の支城である茅ヶ崎城と荏田城がありますが、荏田城は私有地で立入禁止となっています。
[又兵衛 (2000.05.01)]
[ナベ@日本のお城 (2011.03.28)]
近くに笠原氏の菩提寺があります。
[けん (1999.09.13)]
小机城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
JR新横浜が隣の駅なので、新横浜駅近郊に泊まる所はいっぱい!
[けん (1999.09.13)]
ほとんど手が加えられていないので、当時の遺構(土塁・空掘など)をそのままの状態で見学することができます。北条流築城を研究したい方はぜひ!
( けん)さんより
室町から戦国にかけての城です。太田道灌に攻め落とされたこともあります。なお戦国時代は、後北条氏の武蔵における重要な拠点として栄えました。歴代城主は、譜代の家臣笠原氏(早雲に従って関東に移る)・北条幻庵長子三郎・北条氏綱の子氏尭(うじたか)・北条氏康末子氏光など豊臣秀吉の小田原攻めでは、防衛体制がとれずに戦うことなく開城したと伝えられています。
( けん)さんより
もともとは低湿地帯を利用した水城。亀城の別名は水に浮かぶ城がその元のイメージ。城下町は水堀で囲われた総曲輪だったと言われている。
( 又兵衛)さんより
山頂は公園になっており桜が多い。春は花見の穴場としても良いかも。
( 又兵衛)さんより
小机城址まつりは毎年4月第一日曜日に行われておりますが、今年は東日本大地震の被災者に配慮して中止となりました。
( ナベ@日本のお城)さんより
「日本のお城」の管理人の渡邉さんが描かれた縄張り図が、同サイトで公開されています。
( shirofan)さんより