写真:岡 泰行
鉢形城の歴史と見どころ
山川出版社発行の「埼玉県の歴史散歩」に、鉢形城を荒川対岸から撮影した写真が掲載されています。しかし、この写真では鉢形城の特徴的な遺構は分かりません。(たいていの本で紹介されている写真はこの構図のものだけなんです。残念です。)北条氏のお城ですから、もしかしたらその関係の文献なら、詳しい写真が紹介されているかもしれません。また、鎌倉街道に関する本でもよく見かけます。なお、城跡は広大なので、全体を撮影した写真というのは、航空写真しかないでしょう。
(市瀬俊一 98.01.20)
鉢形落城哀史と言う本が詳しいです(秩父市立図書館に有り)。秩父路の古城跡も良い(中田正光著)。
(宮前敬司 98.04.07)
鉢形城の撮影方法
荒川の河原に降りて鉢形城の姿を捉えると、要害さが際立った写真を撮ることができる。
鉢形城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る鉢形城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。鉢形城の関連史跡
対岸の寄居町後方の、正龍寺に北条氏邦夫妻と、北条氏以前のこの一帯の領主、藤田康邦夫妻の墓石があり。
(宮前敬司 98.04.07)
鉢形城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
「割烹旅館 京亭(きょうてい)」に泊まると、鉢形城の北側を流れる荒川越しに、鉢形城の姿が見られるぞ。場所は荒川を渡ってすぐ(埼玉県大里郡寄居町寄居547)。
戦国時代のお城って、ホント実戦的で感心してしまいます。鉢形城跡も、戦国時代の平山城で、跡地には埼玉県林業試験場が建っていますが、遺構は破壊されておらず、郭の跡や土塁、堀跡がよく残っていました。特に、堀跡は水が一部残っていて、驚きました。お勧めはニの丸、三の丸跡です。城の状態が一番よく解ります。
( 市瀬俊一)さんより
鉢形城は、八王子城と同じく北条氏のお城でした。城主が北条氏邦のときに豊臣の「小田原攻め」に遭い、落城しています。やはり、落城悲話として、城内の婦女子が本丸の断崖から荒川に身を投げたという話が伝わっています。
( 市瀬俊一)さんより
搦手から本丸にかけて、県立林業試験場なるものが建っていますけど、本丸は良く残っています。本丸下は切り立った崖。攻めづらかったでしょう。さすが関東七名城の一つ、と感動ひとしおです。さらに二の丸から三の丸にかけては土塁や曲輪、水掘や空掘もよく残っていてすばらしいです。現在は、城跡復元に向けて発掘中です。
( 市瀬俊一)さんより
城の特徴はやはり、荒川と深沢川を天然の堀とし、深沢川の外側には外郭を作り、鉄砲の攻撃にも備えています。本丸近辺は、荒川の高い崖の上にある。本丸からの眺めが最高に良い。只今城跡内は、発掘工事をしています。将来城跡公園になると言うこと。
( 宮前敬司)さんより
大手方面から前方に、車山と言う山が見える。豊臣氏の鉢形城攻撃の時、この山の山頂より、大砲で大手方面を攻撃されました。今でも、地元で代々この話が、語り継がれています。そんな事を考えながら、城内を歩いて見るのも良い。
( 宮前敬司)さんより
豊臣氏の攻撃の時、この鉢形城には、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、幸村父子ら5万の軍が、この城の攻撃に来ました。後、秩父郡内には、鉢形城の出城が沢山残っています。
( 宮前敬司)さんより
敷地はほとんど埼玉県の林業試験場になっており、あちこちに植樹されています。城内の「順路」という看板も、果たして城を見るためのものなのか、木を見るためのものなのか……。城の半分はこの林業試験場の塀で囲まれ、中に入ることもできません。 おまけに駐車場がなく、見に来た人は皆路駐です。本郭に鉢形城三鱗会の建てた碑だけがあり、皆目が点に……。
( 三郎信長)さんより
1999年、鉢形城三の丸(秩父曲輪)と、二の丸と三の丸のの間にある馬出しの発掘説明会に行って来ました。どちらも石垣(石積)がみごとに掘り出されていて、さすがに北条一門衆の城だと実感して来ました。
三の丸の石積は、全長約100m、高さ約3.5m、上幅約5.3m、下幅約12mの三の丸西側の土塁の内側にありました。石積は3段積みで、河原石を使っていて、3カ所に階段が有り、敵に対して、土塁の上からの攻撃が出来る仕組みになってました。
あと、二の丸と三の丸の間にある馬出しですが、ここも驚きました。ここは角馬出しで、四方をやはり石積で囲み、特に西側の土塁の内側に3重の石積が有り中央に階段が有りました。南側には、門の礎石が残っていました。馬出しの回りには、幅約14m、深さ約6.5mの空堀(薬研堀)が有り、見事に当時の姿が発掘されてました。
改めて鉢形城に行って思った事は、やはり後北条氏の城だと良く分かる所が、所々ありました。そして、北条一門衆の一人である、北条氏邦の城にふさわしい城だと、つくずく思いました。それにしても広い。城の面積は、約24万平方m。発掘調査も大変だ。
( 宮前敬司)さんより
鉢形城の発掘調査進行中。三の丸、二の丸の見事な姿が現れました。三の丸の石垣、三の丸と二の丸の間の、角馬出し、水堀、薬研堀、櫓台など、次第に鉢形城の姿が克明に分かって来ました。
( 宮前敬司)さんより
埼玉で国史跡に指定されている城は、この鉢形城と、菅谷城。
( 埼玉観光おすすめ隊)さんより
発掘調査の概要や、成果がまとめられた本が出版されているようです。荒川の流れと、緑の山並み。景色はけっこういいですよ。秩父観光とセットでどうぞ!
( TERU)さんより
寄居町にある鉢形城祉は少しずつ手が加えられていて公園として整備されつつあります。本丸跡には石碑が建ち、その裏手には荒川がながれていて断崖から見る景観は沼田城を思わせるものがありました。北条氏邦は小田原征伐の時に豊臣勢5万余の軍勢に囲まれ一ヶ月も防戦したが、ついに支えきらず城兵の助命を条件に降伏した。なお秀吉は氏邦を許し石川県七尾市に移したと説明板に書かれてありました。秀吉はこの頃は寛大な名将であったのかもしれません。
そして氏邦は城主藤田重利が北条氏康と縁組みして重利には嫡男重連がいたが、氏康の三男氏邦と娘の大福御前と娶せ養子として迎え入れた。養父重利が亡くなると北条の本当の狙いである城乗っ取りが実行に移され、重連は毒殺されてしまう。重連の弟信吉は身の危険を感じ上杉景勝のもとに走った。
しかし氏邦の運命も皮肉でこの信吉が上杉氏と従軍し、鉢形城の地形を熟知していた信吉の献策によって落城の憂き目にあうことになる。鉢形城も戦国のドラマがあり、是非出かけてみてください。
( 横尾)さんより
自分は、2000年の10月以来行ってませんが、その時は、新たに搦め手の笹郭が発掘されていました。あと驚いたのは、二の丸、三の丸間の馬出しに繋がる大きな空堀や、秩父曲輪の屋敷跡の発掘調査をしてました。掘った土の中には、陶器の破片が幾つかありましたが、おいてきました。それから、大手前方の車山からの石火矢砲撃の為なのか、大部土の中に炭が堆積していました。
( 宮前敬司)さんより
試験所跡は、以前、立ち入り禁止だったようだが、シルバー人材になってからは花木園の切れ目から入っても良くなった。そんなに遺構は無いが深沢川を上から望み天然の堀を感じることができる。
( ふみ)さんより