城ファンが一期一会で出会ってきた城や情報─。
シリーズ『城の歴史旅』は、記憶に残したい見聞を強者たちが紡ぐコラムです。
[File.006] 本荘良智
シリーズ城の歴史旅:
『四国現存天守を巡る旅 遠かった!土佐高知城』
宇和島城を早々にJR宇和島駅から予土線にてJR窪川で乗換、土讃線で高知へ。これが乗換待ち時間含め高知までトータル5時間半、ディーゼル1車両ローカル線で四万十川沿いに「カタンコトン」とまるでTV旅番組の様な移動で高知駅到着が21:00、そのままホテルへ直行でした。
翌日の朝カーテンを開けると眩しい位の日差し!快晴の1日の始まりです。先ずはホテルから高知城追手門に向けて徒歩で出発。江の口川を渡り追手筋を15分、青空に映える天守が見えます。その手前に石垣上に載った櫓腰黒羽目板張が目立つ追手門櫓がカッコいい!
幅広の土橋を渡り枡形の正面に城址石碑が、旧漢字で「國寶髙知城」の文字。高知城は現在「国指定重要文化財」、1950年の法改正以前は全ての有形文化財を国宝と定めていたので、この石碑は法改正以前の建立となります。この法改正時点で一旦「国指定重要文化財」となり、新たに国宝基準を定め選定されています。近いところで言うと城址では、出雲松江城が国宝に指定されたのが記憶に新しいですね。
それでは登城開始です。追手門を潜り左手に進み石段をL字状に登ると「杉の段」へ入ります。すると三ノ丸の高石垣のお出迎え、石垣の東側上を見ると石材が出っ張っている。土佐高知は今も昔も変わらず年間降水量が大変多い土地柄、築城時に工夫が施されています。それは「石樋」謂わゆる雨樋(あまどい)、曲輪内に溜まる雨水を排水路で集め石垣の間を通した石樋で曲輪外に排出する仕掛けになっています。他のお城でも石垣の間に暗渠(あんきょ)を設け曲輪外に排出する簡単な設備は見掛けますが、高知城の様なしっかりした設備は少ないと思います。この仕掛けは三ノ丸に上がると綺麗に復元整備されているのでお見逃しなく。
見学ルートに戻り更に石段を右方向に登ると右手に三ノ丸御門趾(鉄門趾)、左手を見ると堀切にデカイ追手門級の櫓門「詰門」(橋廊下とも呼ばれていたそうです)で鎖されています。左側の高石垣の上には天守が…、敵はこのデカイ櫓門を潰せば本丸にと思うのですが、この櫓門を通り抜けても本丸には行けません。実は二階の多門部分が二ノ丸と本丸を結ぶ通路となっており、二ノ丸からではないと本丸には行けない渡櫓になっています。また一階部分は米蔵とし門は表裏で筋違門にされています。二階渡櫓部分は重臣の詰所ともなっており「詰門」呼称の由来になっているそうです。
私もここから本丸へは行けませんので二ノ丸に上がりました。詰門の側面部分の小さな扉から中へ、すると意外に広く本丸寄り右側には襖が在る畳敷の小部屋(家老・中老が詰める部屋)が在りました。
また本丸側は3m位高くなっており、木製階段を数段上がると門が在りどうやらT字型に多門櫓に接続され門が設置されています。門を出ると石段をクランク状(小さな枡形)に登る形で敵が運良く詰門を渡れても容易に本丸には進入出来ない造りになっています。
本丸に入ると地元散歩中のお爺さんから「おまさん、どこからきたが」(あなたは何処から来たの?)と声をかけられ、お爺さんの半生を…。龍馬の実家の近くで生まれた事から始まり、戦時中の話しやらで少し時間は食いましたが良い歴史を聞かせて戴きました。
高知城は本丸御殿も現存しています。全国でも現存本丸御殿は川越城とこの高知城、しかも天守とのセットでは唯一この高知城だけとなります。1727年本丸御殿は城下からの出火した火事により追手門を残し天守・二ノ丸御殿・三ノ丸御殿を含め殆どの建物が焼失してしまうのですが、1729年〜1753年にかけて再建が行われ現在に遺る建造物の殆どがこの時に建造された物です。天守への出入口は本丸御殿内からで本丸玄関側からと城主専用に御殿上段の間側の2箇所となります。天守内には城郭ジオラマが在り、今は無き二ノ丸御殿や他建造物イメージするのも楽しいですね。
天守・本丸御殿の見学を終え黒金門から退出し城下町の見学に向かいました。高知はご存知の通り幕末に活躍した坂本龍馬や武市半平太その他大勢の武士達が生きた地、また時の藩主・山内豊信(容堂) は藩政改革を断行し、幕末四賢侯の一人と言われた地です。その武士達の生誕地や終焉の地(殆ど石碑のみ)や山内家下屋敷現存長屋・門を巡り、最後は高知市より東に約50km、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線で最終駅奈半利まで1時間半、安芸郡北川村に在った中岡慎太郎・生家(復元)の見学に行きました。
山内家下屋敷趾、門・長屋
中岡慎太郎の生家
桂浜
その後高知市内に戻り丸亀城に向かうため、高速バス乗り場に。バスは高松行きなので高松城も途中見学してから丸亀城へと向かいます。
(文・写真=本荘良智)