城ファンが一期一会で出会ってきた城や情報─。
シリーズ『城の歴史旅』は、記憶に残したい見聞を強者たちが紡ぐコラムです。
[File.005] 本荘良智
シリーズ城の歴史旅:『四国現存天守を巡る旅 伊予宇和島城』
大洲城見学後、一路宇和島へ大洲駅から特急宇和海に乗り4駅・50分、JR宇和島駅到着。雨は降ったり止んだり…徒歩で「藩老桑折氏武家長屋門(移築門)」大手口へ、登城口はもう一つ「登り立ち門(現存門)」搦手口が在ります。
宇和島城は1595年(文禄4)、藤堂高虎が7万石で入封、自身が縄張りをし複合式望楼型三重天守を上げた近世城郭として6年を費し築城します。
城は築城の名手、高虎ならではの工夫が見られます。良く知られているのが「空角の経始」と言われる5角形平面の縄張りです。実は5角形平面の城ですが、4角形平面の城に錯覚をさせる為の手法で、攻に難く守に利がある造りだそうです。江戸時代に入ってから幕府隠密が江戸に送った密書(讃岐伊予土佐阿波探索書)には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記入されていたと云われています。また手法では無く地形上、5角形平面の縄張りになったと言う意見も有るそうです(こればかりは高虎に聞いてみないと分かりませんね)。
北側・西側2面は宇和海に面し、ちょうど築城時は「慶長の役」の頃なので水軍基地としての海城造りを意識していたのではないでしょうか。高虎は1600年(慶長5年)、関ヶ原の恩賞により20万石のに加増され、今治に領地替えが決まります。翌年の完成を見てから宇和島を退き今治の築城を開始します。
城郭は明治に堀は全て埋められ建造物は殆どは破却されてしまいます。天守・追手門・搦手上り立ち門・三ノ丸山里倉庫(武器庫)は遺りましたが、昭和20年の宇和島空襲で追手門は焼失してしまいます。因みにこの追手門、地元の方は「御多門」(おたもん)と呼び、実際に古絵図には「御多門」と記名されている様です。現在は追手門趾として民家の軒先に立派な石碑が遺るのみです。また、三ノ丸山里倉庫は「城山郷土館」として藤兵衛丸に移築されています。石垣は伊達の時代に補修・積み直しがされていますが、高虎が構想した縄張りは明治の廃城まで継承されました。
天守は高虎が築いた望楼型三重天守を、1662年(寛文2年)、宇和島二代藩主伊達宗利が「老朽化の為修築」との名目で望楼型が古めかしく嫌だったのか、現在に遺る層塔型三重天守に建替たものです。意匠は白漆喰・唐破風・千鳥破風で飾りますが戦も無い天下太平の世、狭間や石落としの戦闘装備が無い領主の象徴として建造されています。流石に大きさを変える事は出来なかった様で三重のままでした。
城見学が終わった後は宇和島伊達家菩提寺・浄妙山等覚寺に足を運んでみました。元々はこの等覚寺、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が生母の菩提を弔うた為に1618年に建立した寺で秀宗もこの等覚寺の墓所に眠っています。
(文・写真=本荘良智)