城ファンが一期一会で出会ってきた城や情報─。
シリーズ『城の歴史旅』は、記憶に残したい見聞を強者たちが紡ぐコラムです。
[File.002] 本荘良智
シリーズ城の歴史旅:『燃える!? 備中松山城』
私が初めて備中松山城に訪れたのは2011年11月、島根県松江からサンライズ出雲(特急)に乗り初秋の車窓を楽しみながらでした。最寄り駅JR高梁駅を降り、ハテ…?どうしようか、先ずは観光案内所へ行き、おばちゃんに 「Q.お城に行くには?」「A.バスかタクシーだね」タクシー→勿体ない・バス→面倒。いいや、城下町の散策・根小屋趾の見学もあるから徒歩を選択、コレが後に地獄の苦しみが待っていました。本丸天守が在る山頂が標高422m・駅が在る標高62m・比高差360m・距離3km、距離は直線距離、城下町をウロついたので実際は倍位増えたと思います。
城下町の見学もそこそこにして、いよいよ登城開始です。根小屋趾を後に谷合・渓流の沿道を山上へ、すると中洲公園(石が積まれた渓流公園)その辺りから山に入ります。登り始めて思った事、「タクシーで行って城下は帰りにすれば良かった!」そんな事思っても既に遅し。すれ違う人も、後を追ってくる人もおらず遺構らしき物も見当たらず只登るのみでした。
ヘロヘロになりながら上をみると立札らしき物と岩が一つ、「大石内蔵助・腰掛石」と書かれています。何故に?と思う方がいらっしゃると思いますが、1693年・時の藩主水谷勝美が急死、勝美には嗣子が無く幕府は水谷家をお家断絶・所領没収の沙汰を下します。往時平和な江戸時代ですが関ヶ原から約100年、まだまだ気の荒い武者は沢山いました。お家断絶・所領没収となれば幕府相手に籠城一戦交える可能性も有るのです。
そこで城の受取役として赤穂藩主、浅野長矩(内匠頭)が幕府に選ばれました。案の定水谷家家老鶴見内蔵助、以下藩士約千名は籠城。その中へ浅野家家老大石内蔵助が単身説得に行ったそうです。説明が長くなりましたが、その時に腰掛けて休んだと云う岩らしいのです。しかし一国の家老とあろう人物が徒歩で登るんかい?馬でしょう⁈信じるか信じないかはあなた次第です。
暫くすると「ふいご峠」のPに到着、一般的にはココまでシャトルバス等で来て徒歩で登る事となります。ココまでで2/3位は来たか?…、人影も疎らですがチラホラ。もう少し頑張れば…とすると立札が現れます。『登城心得 この先足もと 悪しきにつき 気をつけて歩むべし…城主』等の粋なオ・モ・テ・ナ・シ♡ が、立札は内容を変え大手門址まで数カ所ありました。
大手門趾に到着。石垣に混ざり山城らしい岩盤が「ココから先は絶対通さんぞ!」と言わんばかりです。その岩盤の上方を見ると厩郭の白漆喰土塀脇に真赤に色を染めた赤葉が…、まるで戦で火の手が上がっているかの様な錯覚をさせてくれる位の彩です。同時にヘロヘロになった私に癒しとメラメラと燃え上がる城好き魂の復活をさせてくれました。
その先、脚を進めると今までの鬱蒼とした山道と打って変わり総石垣の素晴らしい風景が目に入ります。壇状の三ノ丸を過ぎ二ノ丸に上がると奥に更に一段高く本丸が在ります。五ノ平櫓と六ノ平櫓(両櫓は復元)に守られ天守台の上、現存天守とのご対面となります。天守としては小振りなのですが威風堂々、約330年間「生き残ったぞ!」と胸を張っている様にも見えました。本丸北詰にはやはり現存二重櫓が遺ります。この二重櫓は岩盤の上に石を積み建造されています。後郭から見る二重櫓も下の岩盤が迫力ものです(ページ冒頭の写真)。
備中松山城の後郭から北方面にも未だ大松山城(中世松山城)や石垣遺構が遺りますが、この日は天守を見た事で大満足してしまい帰路に着きました。この7年後、2018年12月に後郭の先、大松山城・他石垣遺構と雲海を観に再訪する事となります。因みに下山もしっかり高梁駅まで徒歩で下りました(笑)
(文・写真=本荘良智)