篠島の石丁場を訪ねて
三河湾に浮かぶ篠島(しのじま)は、知多半島の南に位置する小さな島である。古くから漁業の島として栄えてきたが、名古屋城の石丁場であったという歴史も持っている。今回、大阪のZさんがこの島にある「清正の枕石」を見に行くというので、同行することにした。
篠島の石丁場についての情報はなかなか見つからない。あちこち調べるうちに、南知多町教育委員会の方から貴重な話を伺うことができた。その方は、2012年に篠島の矢穴石(やあないし)を名古屋城への寄贈を担当された方で、以下のことを教わった。
篠島の石丁場については、長年、文化財保護委員を務められた石橋伊鶴氏が7年にわたる調査を行い、その成果を南知多郷土史研究会の会誌『みなみ』に発表しており、なかでも以下の3冊が集大成とのことだった。
石丁場に関する号
『みなみ』第100号(2015南知多郷土史研究会)
『みなみ』第101号(2016南知多郷土史研究会)
残石に関する号
『みなみ』第106号(2018南知多郷土史研究会)
(『みなみ』はすでに在庫がなく、愛知県の図書館でのみ閲覧可能)
篠島の石丁場を巡る
こうした情報をもとに、篠島の石丁場と残石を訪ねることにした。石橋氏の調査によると、島内には23か所の石丁場があり、大半が海岸沿いにある。今回は、矢穴石が多く残る南西海岸の6か所を重点的に歩くことにした。
「清正の枕石」運び出されなかった巨石。
清正の枕石の矢穴列。
「升岩」矢穴列が4列残る。
この日の干潮は正午。潮が引いたタイミングを狙い、岩礁を往復約1km歩く計画を立てた。岩礁を歩くといえば、芸予諸島の「甘崎城」や「来島城」を思い出す。どちらも潮が引いたときだけ歩ける海城だ。しかし、篠島の石丁場は断崖が直接海に落ち込み、採石跡が点在しているため、歩くのに少し骨が折れる場所だった。
訪れた石丁場
今回巡った海岸の6エリア
小山べた(+小山島〈遠望〉)
ホラボウス
南風ヶ崎(はえがさき)(清正の枕石)
升岩(ますいわ)
棚橋(たなばし)
シワビ
これらの地名は、古くから島民の間で使われていたものらしい。下記は海岸線に広がる石丁場跡の風景だ。遊歩道などは無く、滑りやすい岩場を歩くため充分な準備と注意が必要だ。
メンバーが発見した鉄釘。この頃の鉄の製法は、芯が数百年もつのか知りたい。
小山島。島の右手(北側)などが主に採石された跡で平らになっている。大潮の干潮時には陸続きとなる。この付近を「小山べた」という。島内最大の石丁場跡でこのあたりの波が「べた(凪)」だったことが由来なのだろう。
この3点の写真は、海岸線ではなく、唯一、篠島の山中に残る採石場跡「弁財採石場跡」。
残石を探して
岩礁歩きの後は、島内に残る石を探した。残石は「神戸(ごうど)」地区に多いとされるが、この地区は細い路地が縦横無尽に走る古い町並みで、初めて訪れる者にとっては迷路のようだ。案の定、道に迷いながらも、なんとかいくつかの残石を見つけることができた。残石を探す場合、島の起伏が激しく階段も多いため、レンタルサイクルはあまり役に立たないことを付け加えておきたい。
辻三太夫邸前の石門柱。矢穴列痕多数。右手の石上部には、盃状穴が見られた。
西方寺庭石。島内では珍しく矢穴痕がはっきりしている。
神明神社石垣に見られる矢穴痕が残る石材(二段目隅部の下)。
清正からの寄進と島に伝わる高さ1.5mの六地蔵灯籠。石橋伊鶴氏は報告書の中で、清正が朝鮮出兵から持ち帰ったものではないか、それを島民への感謝の気持ちとして寄進したのではと想像を膨らませている。
篠島港に2011年に設置された矢穴石。長浜のハチエという海岸で見つかったと報告書には記載があった。島内の残石(再利用された石材)はいずれも矢穴痕で矢穴石はこの1石のみ。
残石探しの注意点
島内で案内板が設置されているのは、以下の3か所のみなので注意しておくと良い。
清正の枕石
弁財採石場
篠島港・島の駅前の残石
海岸線の石丁場は、遊歩道などは無く、すべりやすい岩場なので、非常に危険だ。訪問には充分な準備と注意が必要だ。
篠島について、南知多町役場のご担当者様にいろいろとご教示くださいました。記して御礼申し上げます。
(写真・文=岡 泰行)