ふと道すがら、山陽と山陰の話を思い出した。その昔、山口に住んでいたHさん曰わく、山陽で仕事してそのまま山陰に足を運ぶと、天気がどんより変わったらしい。山陽で晴れていても山陰は曇りといった具合で、「山陽」「山陰」とは、誰がつけたかよく言ったものだと感心していた。
「松江の七不思議」のひとつに子育て飴という話がある。松江城下で夜な夜な、飴屋の戸を叩き、一文銭を出して飴を買う女がいた。6日間通い(ちょうど六文銭)、7日目に自分の着物を差し出して飴を買ったそうだ。不審に思った店主が女のあとをつけてみると墓場で消え、赤ん坊の泣き声が聞こえた。墓を掘ると女の遺骸が生まれて間もない赤児を抱えていた。その話が大雄寺(だいおうじ)にある。旅の相棒、S氏の話によるとこういった怪談が寺まで限定して伝わっているケースは珍しいらしい。寺の機能というのは、戸籍の登録所であり病院であり学校でありと、町をまとめ、教育をも担う機能を持っていたから、子育て飴の話を通して母親の愛情など説明していたに違いない。S氏曰わく、同様の話は各地にあって、関西圏ではその飴屋が現存していて教育でなく、どちらかというと店の宣伝に使っているらしい。
尼子の城、月山富田城に上月城に、城の名前がかっこいい。さておき、鹿野(鳥取県)にある山中鹿之助の墓を訪れた。山中鹿之助の墓は、備中松山の胴墓(岡山県)、鞆の浦の首塚(広島県)と、ここ鹿野の幸盛寺、また京都にいくつか供養墓がある。鹿野城下は風情ある町並みでその中心に位置する幸盛寺にある。墓の両脇の石柱を見ると、左側には「男爵鴻池家」(始祖は山中鹿之助の子)、右側には「伯爵亀井家」と書かれている(鹿野藩初代藩主、亀井茲矩が高梁から遺骨を移した)。両家とも山中鹿之助に深く関係しているそうだ。
鹿野(鳥取県)にある山中鹿之助の墓
月山富田城、山中御殿に七曲がりの登城路添え。大内、毛利に山中御殿まで攻められた尼子側の目線で
宍道湖の夕日
(文・写真=岡 泰行)