秀吉が晩年、大坂城の大手口を守る三の丸築造を命じ大坂城をより強固なもにした。長くそのエリアは不明だったが、2003年12月の大阪府警建設時の発掘調査、2015年4月の大阪重粒子線センター建設等でその堀が出土し、大きな発見となった。この堀は発掘時の出土物等から大坂冬の陣後、1614年の冬から翌年1月の間に家康によって埋められた堀であることが分かっている。写真は特別に発掘現場から撮影させてもらった(現在は見ることができない)。粘土層の堀障子で堀の幅は約25m、深さ約6m、斜面は40度以上。取材時に記者が滑って障子堀に落ち、登れなくなっていたのが印象深い。なお、この時、切り落とされた首(頭蓋骨)や、堀の埋め戻し作業中に亡くなり堀に埋葬された人骨や、ムシロに巻かれた女性の人骨も出土している。前者の人骨には、三途の川の渡し賃である六道銭が添えられていたそうだ。
2003年12月、大阪府警建設時の発掘調査で出土した障子堀。
次の写真は、上記の大阪府警建設現場とは異なり(やや北にある)、2015年4月の大阪重粒子線センター建設時に出土した障子堀。大阪府警建設時に発掘された堀から続く同じ障子堀だ(現在は見ることができない)。
堀から出土した菊文軒丸瓦。
(文・写真=岡 泰行)