秀吉の大坂城本丸、詰ノ丸石垣。昭和59(1984)年に金蔵の東側で発見された。この写真は平成26年(2014)の再発掘時のもので、地下約1mに石垣の上端があり、その高さは約6mに及ぶ。詰ノ丸石垣の隅角部(コーナー部)にあたる。特別に発掘現場に降りて撮影させてもらった(普段は非公開)。この写真は、「豊臣石垣公開プロジェクト」パンフレット表紙に使っていただいている。いやもう写真家冥利につきるご配慮に感謝。詰ノ丸石垣とは、豊臣大坂城の曲輪の名称で本丸を構成する石垣。本丸は、詰ノ丸、中ノ段、下ノ段の三段で構成されていた。先の中ノ段石垣は地下7m、こちらは地下1mから出土ということで、その段差のスケール(高さ約6m)が分かる。つまり、詰ノ丸は中ノ段より本丸の中心部となる。
豊臣石垣というと、よくドーンセンター横の石垣が取り上げられることが多いが、あちらは秀吉晩年の大坂城拡張時のもの、こちらは秀吉の絶頂期のものと考えてよく、豊臣大坂城のより中枢だ。
2014年3月の再発掘時の様子。支保工の向こう(地下)に豊臣石垣が見える。深さは約7m。
礎石らしき加工がなされた石垣石。古代寺院のものと思われる建物の礎石で、石の右端に大坂夏ノ陣のものと思われる火を受けた赤く変色した跡が見られる。
2016年2月の再発掘時の様子。見えているのは石垣の上部で、裏込め石の奥に詰ノ丸表面があり焼土層がある。
写真は特別な角度から撮影させてもらっている。裏込め石には、石臼や石塔台、一石五輪塔などが含まれていた。
現在、こちらの公開施設を作ろうと、大坂城豊臣石垣公開プロジェクトが大阪市によって起ち上がり、広く募金を募っているぞ。
(文・写真=岡 泰行)