写真:岡 泰行
茨木城の歴史と見どころ
茨木城(いばらきじょう)のはじまりは、建武年間に楠木正成によるものとするものやその他の説もあり、はっきりしていない。歴史上、その名を現すのは応仁の乱となり、茨木氏の名も奉行衆のひとりとして登場している。
茨木氏は、永禄11年(1568)、織田信長の摂津に侵入した際、信長に降ったため所領を安堵される。元亀2年(1571)、池田氏との戦いで茨木氏は大敗し滅びる(白井河原の戦い)。天正5年(1577)に中川清秀が茨木城に入るが天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで戦死する。
茨木市史によると、茨木城は中川氏(嫡子の秀政)の三木転封後に、秀吉の直轄領となり、軍事的な役割は高槻城が持ち、茨木城は鷹狩りの御座所となり、茶々が養生する城として使われていたそうだ。この間、安威了佐、河尻秀長が城主を務めるが、関ヶ原の戦いの後は、大和に本領があった片桐且元・貞隆兄弟が茨木城に入る。しかし且元は方広寺鐘銘事件がきっかけで豊臣家から内通を疑われ大坂から退去、且元は大坂の役の豊臣家滅亡後に死去する。慶長20年(1615)、徳川幕府の一国一城令で摂津は高槻城のみとなり茨木城は廃城となる。
それより以前から廃城の動きがあったとも言われ、茨木市史では文禄検地までの間に惣構の撤去、大坂冬の陣後に中心部を残して破却、元和4年までの間に残された部分も消滅し、高槻城に城の役目は集約されたとしている。
片桐且元の弟、貞隆が本領の大和小泉に茨木城の櫓門を移し、慈光院にて現存している。
参考文献:『新修茨木市史』第2巻(茨木市)、『日本城郭大系12』(新人物往来社)、『探訪ブックス城5近畿の城』(小学館)
茨木城の特徴と構造
茨木城は開発によって地形が失われているため、すべての城域が判明している訳ではない。明治期の地籍図や「本丸東町うらノほり」などその地名が廃城時の城域推定の手がかりとなっている。茨木市史では天守台は茨木小学校の南東に周囲より一段高いところがありその候補地とされているが現地は住宅街となっており、それを体感するのは難しい。
茨木城復元櫓門。茨木市立茨木小学校の校門となっている。この門のデザインは前述の大和小泉に片桐貞隆が持っていった櫓門(下写真)を元にしている。
慈光院(奈良県大和郡山市小泉町)にある茨木城の櫓門。片桐貞隆が大和小泉に持ち帰り、二代藩主片桐貞昌(石州)が、父である貞隆の菩提寺「慈光院」を建立、その櫓門を書院に合わせ茅葺きに変更して使用した。余談ながら、片桐貞昌(石州)は徳川四代将軍にお茶を指南していたこともあって、慈光院ではお茶のおもてなしを大切にしている。
茨木小学校に復元された城門脇に茨木城址石碑がある。
片桐且元在城碑(茨木小学校内) ※校内のため通常、見ることはできない。
茨木城搦手門(茨木神社)。
棟木にデザインが施されているのが特徴だ。
なお、ネット上で間違った配信が多いが、妙徳寺に移築されていた茨木城の城門は今は無い。今から12、3年ほど前(2007年もしくは2008年あたり)に、その部材を文化財資料館が譲り受け同資料館2階で棟木が展示されている。妙徳寺の新造された山門は残念ながら2018年の大阪北部地震で倒壊してしまう。妙徳寺は文禄2年(1593)開基の寺院で「妙徳」は中川清秀の娘の法名。
妙徳寺に移築されていた茨木城の城門の棟木。「虹梁形頭貫」という。茨木神社の搦手門の棟木のようにデザインが施されている。
黒井の清水(茨木神社)。豊臣秀吉の茶の湯にも使われた名水と伝わり茨木神社境内にある。左手の起伏は、茨木城の西の守りである茨木川(天井川)の起伏で、石垣は茨木城の移築と伝わる。
茨木川が流れていた跡で現在は公園となっている(茨木城の西の守り・天井川跡・元茨木川緑地)。
このほか、茨木小学校前の復元城門から南へ170m行くと梅林寺があり、境内には中川清秀の墓がある(非公開)。当時、戦死の報を受け、住職是頓和尚が賤ヶ岳の戦地に向かい清秀の遺髪を持ち帰り供養したと言われている。
梅林寺には中川清秀の墓があるが公開されていない。
中川清秀の墓は賤ヶ岳の山中にもある。茨木市史では、清秀の家臣は池田家旧臣の元同僚で構成され、ほかの家臣も在地土豪ばかり、清秀自身の家臣がいなかった。いわば突貫で構成された家臣団で縦の主従関係が薄く、賤ヶ岳の合戦も先頭に立って家臣を引っ張る必要があったことが、戦死の遠因となったかもしれない、としている。この地域の歴史を知るにつれ、めまぐるしく変わる、いや、変えていなければならない組織とそのスピードに驚かされる。
パンフレット『いばらきの歴史を探ろう!』
茨木城と現在の地図の重ね合わせ図や、移築城門の紹介、見つかった遺物、付近の小さな城跡まで掲載。児童向けに制作された冊子で、とても見やすくまとまっていて、茨木城の中世から近世までその要所がすっと頭に入ってくる優れもの。城ファンなら茨木市立文化財資料館にて中世編と近世編をGETしておこう。茨木市のWebサイトでPDF公開されている。
書籍『新修茨木市史』第2巻
茨木城の関連史跡
茨木市立文化財資料館
現地では必ず訪れておきたい資料館。その縄張の復元案など茨木城を読み解く優れた展示がなされている(場所は上記Googleマップ参照)。また、茨木遺跡(茨木城の東堀)など発掘調査で見つかった欄間や障子、安土桃山時代の丸瓦、移築城門の部材が展示されている。
妙徳寺に移築されていた茨木城の城門の部材を文化財資料館が譲り受けた。「虹梁形頭貫」という棟木でこれが文化財資料館の2階に展示されている。「妙徳」は中川清秀の娘の法名。余談ではあるが、妙徳寺の新造された山門は、2018年、最大震度6弱を記録した大阪北部地震で倒壊してしまう。2020年現在、妙徳寺に新たな山門は建立されていない。
茨木神社で搦手門と黒井清水
茨木神社には、茨木城の搦手門が移築されているので足を運びたい。境内北側には、「黒井の清水」と呼ばれる井戸があり、赤井の清水、青井の清水とともに、嶋下郡三名水といわれているそうだ。この黒井の清水は、豊臣秀吉の茶の湯にも使われた。また、茨木神社の西側に土塁らしき起伏が続くが、これはもともと茨木川が流れていた跡で、天井川だった。現在、上流で川の付け替え工事が行われ、水は流れておらず、元茨木川緑地として公園化されている。茨木城の西側を守った川(堀の役割)なので、見ておくと良いぞ。
大和小泉陣屋に移築された櫓門
慈光院(奈良県大和郡山市)にある茨木城の櫓門。片桐貞隆が本領である小泉陣屋に、茨木城の櫓門を移築、その後、二代藩主片桐貞昌(石州)が、父である貞隆の菩提寺「慈光院」を建立し、その櫓門を書院に合わせ茅葺きに変更して使用した。2020年秋に新たな茅に葺き替えられた(12〜15年スパンで葺き替え)。茨木小学校に復元された城門はこれをもとにデザインされている。
茶人としても知られる古田織部の妻は、中川清秀の妹と伝わっているらしい。
( 茶人)さんより
茨木城へ足を運びました。阪急南茨木駅付近にあるという市立文化財資料館へ(付近の城攻めに有用な本『わがまち茨木 城郭編』が手に入るとのことです)に向かってみるが、見つからず。諦めて茨木城に向かうが、どこで何を間違えたか、万博記念公園のすぐそばまで来てしまいました。どうにか城跡に着きましたが、ここまで無駄足1時間超。せっかくなので、川沿いの茨木神社にある伝搦手門をしっかり眺めておきました。茨木城下町は細かな路地が張り巡らされています。しかし肝心の城跡を示す碑や説明板は見あたらず。茨木小学校の校内に実は石碑があるのですが、その碑面は校外に背中を向けてしまっているのです。悔しがる私を、二宮金次郎さんは落としがちな視線で冷ややかに見ていました。
( 元就)さんより
茨木城は、中川清秀や、豊臣家家老、片桐且元の居城でした。城跡は市街地となり、城跡碑があるのみです。でも城の搦手門が、旧城内に建つ茨木神社の東門として、残されています。又、奈良県大和郡山市小泉町の慈光院に、かや葺きの茨木城楼門が残されています。小泉町には、且元の弟片桐貞隆の居城がありました。京都方広寺の鐘銘事件で、豊臣家と徳川家の板ばさみとなった、片桐且元は茨木城から退城し、城は廃城となりました。
( 乾 宏次)さんより
フランシスコ・ザビエルの肖像画が発見されたのは、ここ茨木とご存じでしたか? 茨木市千提寺周辺は「隠れキリシタンの里」として知られています。
( 丹波大納言)さんより