写真:岡 泰行

有子山城の歴史と見どころ

関東上野からおこって守護大名となった山名氏が、時義(ときよし)の代に、但馬に進出、支配が11カ国に及び山名の総領職を継ぎ山名の総本家となる。時義は但馬の本城として此隅山城(このすみやまじょう)を築き、以後、山名氏7代が本拠とした。永禄12年(1569)、織田信長配下の羽柴秀吉の侵攻により大打撃を受け、天正2年(1574)、南へ約2kmの有子山(ありこやま)に本城を移した(此隅山城は廃城)。有子山は標高321mあり、本丸からは周囲をよく見渡せるのが利点だが、敗戦直後にさらに急峻な山城へと移ったことは時代に逆行していると言っていい。その後、黒井城主の萩野直正が但馬に侵攻し、竹田城を落とし有子山城に迫った。時の城主、氏政は信長に救援を求め、明智光秀が難を救った。その後、天正5年(1577)、天正8年(1580)に再び秀吉の但馬侵攻で、秀長率いる藤堂高虎に攻められ有子山城は開城した。氏政は因幡(鳥取)に逃れ、山名氏は滅ぶこととなる。その後、城は秀吉の命により青木勘兵衛、前野長康、小出吉政が入封するが、慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館を出石城として築造、有子山城は廃城となった。

有子山城は本丸を中心に東西の尾根に郭を展開している。東西の尾根は城域の終端に堀切と竪堀を設け、その中心部に主郭を含め7段ほどの曲輪を配し、西側には広大な侍屋敷(千畳敷)が設けられている。主郭を含むいくつかの曲輪には石垣が用いられている。また、南側には石取場があり、矢穴のある石材が数多く見られる。井戸曲輪の土留めの7段の石垣も含め、多種多様な見どころが感じられる山城となっている。

有子山城の関連書籍

観光案内所で縄張図が掲載された「此隅山城」「有子山城」「出石城」パンフが配布されている。

または、『ひょうごの城紀行』神戸新聞社発行。背後の有子山城との関連や、出石城の縄張りなど詳しく載っている。兵庫県下の書店で手に入ることが多い。

有子山城の撮影方法

有子山城 三の郭南側石垣出石城から登ると尾根を直登することになり結構なハードさがあるが頂上の主郭からの眺望は良い。雲海シーズンに主郭まで登ると、雲海に浮かぶ有子山城が堪能できる。また、「第三曲輪(11)」南側の石垣は、その累々とした姿が、中世の山城を彷彿とさせるので、是非、撮影にトライしてほしい。近年、崩落を防ぐためネットが張られてしまったが、一見の価値ありだ。

有子山城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る有子山城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

有子山城の関連史跡

「出石は但馬文化発祥の地として古事記、日本書紀にもその名が見え、中世には山名宗全一族の本拠地として二百年間繁栄を誇り近世に小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として但馬に並びなき繁華を極めました。二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず井然とした街路、美しい山河のたたずまいなど、出石が但馬の小京都といわれるゆえんです」 (~城下町 出石~ 案内板より)

上記にもあるように歴史の古い町で見所も多く、出石城、宗鏡時(沢庵寺)、出石神社、家老旧邸、辰鼓櫓、桂小五郎の潜伏地など、多くの史跡や城下町の名残りが町内に散在しています。城郭の遺構としては町内の北のはずれ(出石神社の北側)に但馬守護職山名氏のかつての居城であった此隅山城跡があります。標高も140.2mと登りやすい山城ですが、城域が東西1300m、南北750mにも及ぶ大規模なもので但馬最大の城郭です。(吉田 豊太郎 1999.09.01)

有子山城のおすすめ旅グルメ

出石は関西屈指のそば処。出石焼の小皿に持った皿そばで、何枚も食べる独特のスタイル。江戸中期に信州上田藩から来た仙石氏によってもたらされた。城下には約50軒が軒を連ねている。

有子山城のアクセス・所在地

所在地

住所:兵庫県豊岡市出石 [MAP] 県別一覧[兵庫県]

TEL:0796-52-3111(出石振興局地域振興課)

アクセス

鉄道利用

JR山陰本線、江原駅、または、豊岡駅より全但バス「出石行き」終点まで。なお登山口は出石城の稲荷曲輪(最上段の曲輪)入口脇にあり、そこから山頂の本丸まで尾根を直登で約1時間40分。

マイカー利用

北近畿豊岡自動車道、八鹿氷ノ山ICから約30分(16.6km)、県道9号、県道6号、国道312号、県道2号を北上する。 大阪方面からは舞鶴若狭自動車道、福知山ICから約1時間(47.2km)、国道9号線、国道426号線利用で北上する。 有料駐車場は「大手前有料駐車場」「庁舎南有料駐車場」「西の丸有料駐車場」の3カ所でいずれも城から近い。

なお、城山の東側より林道があり、千畳敷脇を通って主郭部まで通っているが、地元の方に聞いたところによると関係者以外通行禁止とのこと。

城ファンの気になるところ (6)

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    有子山城は天正2年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊により築城された。その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したという。しかしわずか6年後の天正8年(1580)天下統一をねらう織田軍によって城は陥落。城主は因幡に出奔した。その後城は織田系の城主の管理となるが、江戸時代に入り、ふもとに出石城が築城され、有子山城は廃城となった。
    (〜国指定文化財  山名氏城跡(有子山城跡)〜 案内板より)

    ( 吉田 豊太郎)さんより

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    出石城の背後の標高321.5mの有子山の山頂に位置する山城。城郭としては山麓の出石城ほど知られていませんが、なかなか規模の大きな山城で、山頂部の本丸を中心にその西方に6段の曲輪が並び、南東の堀切を隔てて千畳敷と呼ばれる全長124mにも及ぶ巨大な曲輪を有しています。主郭部には高さ4〜5m程のしっかりした石垣が築かれており、特に山麓の城下町から見える面に多用されています。また本丸には天守台と呼ばれる約1.5m程の高台もあります。

    ( 吉田 豊太郎)さんより

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    見所はなんといっても本丸周辺部の石垣で、また本丸の石垣に立って城下を眺めてみるのもまた格別です。本丸跡には休憩所(山麓から見える三角屋根)がありますが、屋根だけの構造なので地面の上に座るのが嫌な人は何かシートでも持って行ったほうがいいと思います。

    ( 吉田 豊太郎)さんより

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    登山道は山の4/5辺りまで直線状に登っているので結構疲れます。ただ、この山道は14ヶ所以上の小曲輪を貫いて登っており、また途中には堀切もあるので注意して登ってみると面白いかもしれません。道は山の4/5を過ぎた辺りで本丸から北に連なる曲輪群に突き当たり、右手方向に向きを変えて平坦になります。ここをしばらく進んで行くと折れ返すように登る道が再び現れ、本丸から西に続く6段の曲輪の最下段に到着します。

    ( 吉田 豊太郎)さんより

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    有子山ネーミングの由来、現地で面白い話を聞きました。一説には、山名氏時代、当初は城下町を挟んで反対側の「比隅山(このすみやま)」に城を構えていたそうですが、「比隅山」は昔は「子盗山」と書いたそうです。最近はその表記が前者に統一されているそうですが、その山名氏時代、比隅山城にて子が出来ず、反対側の山に移り子ができ「有子山(ありこやま)」と呼ばれるようになったとか。比隅山城は土累や空堀などが残るそうです。

    ( 半兵衛)さんより

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    有子山城雲海が秋には見れるそうです。但馬地方の竹田城は雲の上に城跡が浮かび上がるような風景で有名ですが、有子山城も雲海が見られるそうです。季節は秋で、足下を雲が動くそうで、ポイントは朝6時に起きて有子山を見たとき、霧や雲で山が見えないときに登るのだそうです。本丸前のロープは霧が出たときにも役立ちそうです。

    ( 半兵衛)さんより

城の情報

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