魚住城の歴史と見どころ
魚住城の歴史
陶芸生産地(魚住焼)や港湾施設(魚住泊)として古くから開けていた住吉社領魚住荘を代々領した魚住氏の居城で、南北朝時代に魚住大夫判官長範によって明石市魚住町中尾(現在の中尾住吉神社の場所?)に築かれたのが始まりです。魚住氏の居城は吉長の代になって加古郡安田城(加古川市尾上町安田)に移りますが、天正6年(1578)、三木城を支援する紀州の雑賀衆、毛利勢を受け入れ、かつ糧道を確保する為に海上輸送に便利な明石市江井ヶ島(西嶋)の地に魚住左近亮頼治によって新たに築かれました。城は三木籠城軍を支える一大補給基地として機能し、城に面した港には毛利水軍の小舟が充満していたといわれていますが、三木合戦後は毛利軍が引き揚げた事からその存在理由を失い廃城となりました。(吉田 豊太郎 1999.10.03)
注)三木合戦以前の魚住城は区別するために「魚住古城」と呼ばれています。
書籍
あかし芸術文化センター刊行の『新明石の史跡』、木村 英昭発行/著『史料 明石の戦国史』などの本に詳しく載っています。
『新明石の史跡』は一般書籍ですので明石周辺では簡単に手に入ると思いますが、『史料 明石の戦国史』は自費出版らしく特定の書店でしか手に入らないと思います。なお『史料 明石の戦国史』には第二部に「明石の城館について」第三部に「三木・高砂・加古川等の城館について」の項目があり明石周辺の城に関して詳しく書かれています。(吉田 豊太郎 1999.10.03)
魚住城の関連史跡
城跡より南に向かい海岸線に出て東に進むと道の駅「江井ヶ島」があり、その建物内には日本徳利博物館があります。またここには江井ヶ島酒造が付近にある事から明石の地ビール3種類が売られており、レストラン?でも飲むことが出来ます。(吉田 豊太郎 1999.10.03)
三木合戦の際に三木城籠城軍の補給基地として機能し毛利・紀伊雑賀の軍勢が駐屯していた城館です。本来は古く播磨五泊の一つに数えられていた播磨灘の避難港である魚住泊をおさえる為に築かれたのが始まりですが、三木合戦の際に補給基地として海に面した大久保町西嶋の赤根川によって切断された台地上に新たに築き直されました。
( 吉田 豊太郎)さんより
数年前まで城跡の台地(地元では城山と呼ばれています)には江井ヶ島酒造の廃工場が建ち、その塀ぞいに市の立てた木柱の標識がありました。しかし現在は宅地造成の為に綺麗に整地されてしまい、場所を示すものがまったく無くなってしまいました。宅地化以前でも土塁・空堀等の遺構が確認できず縄張りも不明確な状態だったのですが、それでも台地の一部が道路に面していて立地場所を何となく確認できました。しかし分譲地となった今となってはそれもままならない状態です。
( 吉田 豊太郎)さんより