写真:岡 泰行
聚楽第の歴史と見どころ
京都にて現在の二条城の北に、秀吉の城、聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)はあった。聚楽第は関白秀次の切腹とともに秀吉によって取り壊された城で8年間だけ存在した。資材は伏見城などへ活用されたという。未だすべてが解明されていない。現在、町中に建つ石碑は発掘調査によるものと伝承や絵図を参考に推定地とされたものがある。町名ともリンクしているケースも多く、パーツをつなぎ合わせて実感するお城と言ってよく歩けばちょっと面白い。
聚楽第の主要エリアを歩く
聚楽第は、近年、発掘で少しずつ明らかになってきている。聚楽第の石碑も整備・新造されてきており、ここでは散策に役立つスポットを紹介する。上記Googleマップは石碑や見どころを網羅、寸分狂わずプロットしているので是非役立ててほしい。なお、京都には徳川時代の大名屋敷跡の石碑や、伏見城の遺構なども点在するが、この地図では聚楽第主要エリア内に存在するものだけプロットしている。
此付近聚楽第址 石碑
「此付近」となんとも曖昧な文言だが、石碑の横に建つ案内板によるとここは「此附近聚楽第本丸西濠跡」とのこと。
聚楽第址 石碑
石碑の東面には「大内裏及聚楽第東濠跡」と書かれており、大宮通すぐ南側にあるハローワーク西陣の立替工事のおりに、石垣や金箔瓦が出土したとのこと。この石碑は平成21年に建てたれたもの。
梅雨の井
秀吉が茶の湯に愛用した名水という伝承があり、長く聚楽第の代表格とされてきた歴史スポット。聚楽第といえばこの井戸と有名だったが、実は聚楽第のものかは定かではないのだとか。
聚楽第南外濠跡 石碑
松林寺の山門脇に石碑がある。この山門から境内までの段差や、山門前の道路が坂道になっているのが掘の名残。
聚楽城鵲橋旧跡 石碑
「ここをもっと広めてや!」と現地の古老に声をかけられた。その昔、聚楽第に、堀に架かっていた橋、鵲橋(かささぎ)があったという言い伝えが石碑として残ったのだとか。お稲荷さんを囲う石材のひとつが、その石碑。京都は町ごとに神様が大切に祀られている。
此南 聚楽城武家地 直江兼続屋敷跡推定地 石碑
此北 聚楽城武家地 上杉景勝屋敷跡推定地 石碑
1本の石碑の北面に「此南 聚楽城武家地 直江兼続屋敷跡推定地」西面に「此北 聚楽城武家地 上杉景勝屋敷跡推定地」と書かれている。付近の地名「直家町」がその由来。
聚楽城武家地・豊臣秀勝邸跡伝承地石碑
平成21年に設置された石碑と案内板がある。なお、その案内板が実は優れていて、聚楽第図屏風や広島藩浅野家の山城聚楽などが掲載されているから必見。
木村長門守重成公旧館地石碑
聚楽第があった頃の屋敷跡。木村重成は、大坂夏の陣で戦死した。大阪の八尾市、若江城付近にその墓がある。「長門町」という町名は木村長門守重成に由来するのだとか。石碑は弘誓寺の山門右側の脇にある(鉄格子の内側)。
聚楽城武家地・黒田如水邸跡石碑
この付近の地名「如水町」「小寺町」は黒田氏の名残。小寺は播州の御着城(ごちゃくじょう)で小寺氏の家臣だった頃の名残り。
聚楽城武家地・上杉景勝屋敷跡石碑
平成21年に建立された石碑。地名「弾正町」は上杉景勝の官位が弾正大弼(だんじょうおおひつ)だったその名残。利休切腹時には北東にある利休屋敷を景勝の軍勢が取り囲んだと伝わる。
千利休居士聚楽屋敷跡石碑・晴明神社
秀吉が聚楽第を建てたころの利休屋敷跡。また、利休終焉の地でもあり、ここで自害した。首は、堀川の中立売橋で、大徳寺三門の木造に踏ませるかたちで、晒し首にされたのだとか。千利休の自害後、秀吉によって屋敷は取り壊されたが、後に、利休七哲の一人である細川忠興の長男によって茶室としてこの地は活用された。晴明神社の境内には、利休が使ったとされる井戸があり、鳥居南側に屋敷跡を示す石碑がある。
中立売橋
聚楽第と禁裏を結ぶ要所で聚楽第への玄関口。秀吉をはじめ有名武将達が渡ったかも。また、利休の首は、この中立売橋で、大徳寺三門の木造に踏ませるかたちで、晒し首にされたのだとか。
聚楽第の遺構と伝承がある建築遺構
聚楽第裏門
「西本願寺の飛雲閣」「大徳寺唐門」「妙覚寺大門」「妙心寺播桃院玄関」が聚楽第の遺構と伝わっているが定かでない。このうち、妙覚寺の聚楽第裏門がいつでも見られる。ほかは特別公開時にしか目にすることができず撮影も禁止されているケースが多い。妙覚寺は、地下鉄鞍馬口駅より徒歩約10分で、しだれ桜が門前にあり毎年4月の第一週あたりに見頃を迎える。
阿吽の石庭・龍源院
京都の大徳寺の塔頭のひとつ、龍源院の阿吽の石庭に、聚楽第礎石が2つ配置されている。また、龍源院には、徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時のものと伝わる豪華な碁盤がある。龍源院は、大徳寺の特別公開時に入ることができる。京都市北区紫野大徳寺町で、JR京都駅から市バスを利用しよう。
桐章・松前城
北海道の松前城天守に、聚楽第にあったと伝わる「桐章」が展示されている。豊臣秀吉から拝領したもので、松前城の本丸御殿に取り付けられていたが、御殿の解体後、松前神社の宝物となった。
聚楽第の関連資料
京都府埋蔵文化財調査研究センター
2012年10月〜12月、京都府警察本部西陣待機宿舎建設工事で、聚楽第の本丸の堀の石垣がはじめて発掘された。(そのほか、土塁の盛土なども)。この調査で聚楽第の本丸南端北端の正確な位置が判明した。現在は埋め戻され見ることはできないが、貴重な発見だ。現地説明会の資料は、京都府埋蔵文化財調査研究センターのサイトで公開されているぞ。
平安京跡イメージマップ
2016年1月、立命館大学の矢野桂司教授、京都市平安京創生館(京都アスニー)の手によって、Web上で閲覧できる『平安京跡イメージマップ』が制作された。御土居の位置や聚楽第の石碑と縄張推定図、旧二条城、足利義輝邸跡、各大名の屋敷跡の石碑を網羅。聚楽第は近年、発掘された聚楽第石垣のラインまで地図上で確認することができる。
京都市文化財ブックス第31集『天下人の城』
京都市文化財ブックス第31集『天下人の城』(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課)に旧二条城ほか、聚楽第、伏見城など京都の城について書かれている。京都駅ビル2階の京都総合観光案内所で販売されている。聚楽第については、現代の地図に重ねた復元案が掲載されている(平成29年4月1日発刊・A4カラー114P)。
『京都秀吉の時代 つちの中から』
『京都秀吉の時代 つちの中から』(京都市埋蔵文化財研究所)は、妙顕寺城、聚楽第、御土居、伏見城、淀城、方広寺など、秀吉時代の京都を豊富な写真と地図で解説する。聚楽第は、馬瀬智光氏作成の南外堀まで現代の地図に重ねた図が掲載されている(2010年10月1日発行、A4カラー64P)。
聚楽第の撮影方法
聚楽第の遺構と伝わる「妙覚寺大門」は、だれ桜が門前にあり毎年4月の第一週あたりに見頃を迎える。京都の春といえば花見客でごった返すイメージが強いが、妙覚寺の桜は、ひっそりと佇んでいるといった風情で、観光客もほとんど訪れていない。
聚楽第の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る聚楽第の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。聚楽第の関連史跡
秀吉の御土居
御土居は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁で、御土居の内部を洛中、外部を洛外といった。現在、8箇所が残り史跡指定を受けている。聚楽第Googleマップに御土居が確認できる場所をプロットしたので、合わせて巡ってみても面白い。
西陣
聚楽第の北に、西陣の石碑が2本、村雲御所跡石碑、山名宗全邸趾石碑、山名宗全旧蹟石碑があるので、ちらっと見ておこう。西陣とは、織物の西陣織で有名だがその名は、戦国時代のはじまりとされる応仁の乱で、西軍総大将である山名宗全らがこの地に陣を構えたことに由来する。また、村雲御所跡は秀吉に自害させられた秀次を弔うために建立された寺院の跡。
聚楽第のおすすめ旅グルメ
聚楽第エリアは住宅街で特に食事処はないが、関連する京野菜をひとつ。かつて聚楽第が破却された後、その堀で偶然ごぼうが成長した。これが京野菜の「堀川ごぼう」で、聚楽ごぼうとも呼ばれている。現在では京都や舞鶴で生産され、毎年12月上旬に収穫される。
聚楽第の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
京都駅近郊にビジネスホテルが数多くあるが、あえてこの付近にということであれば、二条城の東側にあり二条城が見下ろせる「京都国際ホテル」「ANAクラウンプラザホテル京都」へどうぞ。
聚楽第のアクセス・所在地
所在地
住所:京都府京都市上京区中立売通 [MAP] 県別一覧[京都府]
アクセス
鉄道利用
JR京都駅からバス「堀川中立売(ほりかわなかだちうり)」降車、西へ徒歩散策。主な聚楽第の主要エリアのみなら所要時間は、石碑を繋いで徒歩1時間といったところ(詳しくはGoogleマップ参照)。
マイカー利用
名神高速道路、京都東ICら約30分、または京都南ICから約30分。付近は細い路地ばかりなので、二条城の有料駐車場を使用し北へ徒歩散策が望ましい。
聚楽第と言えぱ、秀吉のお城ですが、その庭にはブドウの木があったそうです。山梨の甲州とよく似た品種のブドウで、聚楽と呼ばれていたそうです。少し前に京都でその子孫らしいブドウの樹が、みつけられたそうです。
( 甲斐の虎)さんより