大阪城残念石のリスト

神戸市の残念石と石丁場

兵庫県神戸市内に残る残念石(残石)を訪れました。徳川大坂城を築くための東六甲採石場は、6つのエリアに分類されていますが、神戸市内については、城山刻印群のH地区が該当します。『徳川大坂城東六甲採石場』(2008兵庫県教育委員会)にはその分布図と、住吉川の扇状地である神戸市東部の市街地の石材一覧表(12石)が掲載されています。これらは「住吉川刻印群」ともいわれていますが、芦屋市西宮市のようにその範囲が特定されている訳ではありません。今回は、この報告書をもとに今現在の石材の有無を確かめながら、神戸に残る境界石やその他の残石に足を運びます。

城山刻印群は芦屋市にあると思いがちですが、その山中奥地にあるH地区は神戸市にあたることを芦屋市の学芸員さんから教わります。2024年3月に有志6名でH地区に分け入りました。また、神戸市街地の残石は同年9月に2名で散策しています。16年前の情報で残石がすでに無いというケースが結構ありました。

このページでは、城山刻印群H地区と、2024年現在の神戸市街地(個人宅は除く)に加え、最後に大坂城に石を運んだ人物ゆかりの寺を訪ねています。写真は山から海に下るかたちで紹介していきます。

城山刻印群のH地区

城山刻印群H地区は荒地山の西側斜面にある。芦有ゲートから南へくだるかたちでアクセスした。途中から登山道が無く、また石丁場跡という危険な場所のため、充分な準備と装備が必要だ。
城山刻印群H地区の矢穴石
矢穴列が残る巨石。右奥の石には堀尾家の分銅紋が刻まれている

城山刻印群H地区に残る分銅紋
堀尾家の分銅紋がある刻印石

城山刻印群H地区の矢穴石
城山刻印群H地区の矢穴石
城山刻印群H地区の矢穴石
城山刻印群は、本ページ紹介のH地区のほかに、芦屋市の鷹尾山(鷹尾城)に割石や刻印石が残る。それらは、本サイトの芦屋市の残念石ページで紹介しているのでご参照を。

神戸市内に点在する残念石

岡本八幡神社

岡本八幡神社の割石
岡本八幡神社の参道脇にある残念石(残石)。矢穴で割り左右に石が開き、その間から樹木が成長していた。報告書は、その状態から市街地では原位置を保っている数少ない割石で、徳川大坂城に伴う採石活動が岡本周辺にまで及んでいたとしている。

白鶴美術館

白鶴美術館
白鶴美術館内の3つの庭には背後の六甲山から切り出した大量の御影石が使用されている。庭石として利用されたAタイプ矢穴痕が残る割石と「井」のマークの刻印があると県教育委員会の報告書には記載があるが、くまなく散策するも該当する庭石が見当たらないため、白鶴美術館に調査のご協力をお願いした(2024年9月現在)。写真は昭和9年に建てられた和洋折衷建築。空間の使い方に独特の重厚感と贅沢さが香り面白い。

神戸市立小林墓地

小林墓地の六地蔵
小林墓地の六地蔵背面に見られる矢穴列痕
神戸市立小林墓地の六地蔵。そのひとつに背面にAタイプの矢穴列痕がある。小林墓地では、もう一石、矢穴痕がある石が写真付きで紹介されていたが、写真背景に写る石垣と、割石の形の二方向で墓地内をT氏と2人でダブルチェックするも見つからず、すでに無いものと思われる。

弓弦羽神社

弓弦羽神社
弓弦羽神社の割石
弓弦羽神社境内に古Aタイプの転用石材があるという話だが、宮司さんにお話を伺うも、はっきりと分からない。だが、それらしい割石を見つけた(矢穴タイプから徳川大坂城の石材とは考えにくい)。

水神宮

水神宮
水神宮の割石
「水神宮」は弓弦羽神社の飛び地で階段の踏み石に割石を転用している。Aタイプの矢穴列痕が残る。水神宮は弓弦羽神社から100m南下したところにある。神戸市に水神宮は複数あるので、詳しい場所はページ末尾の残念石Googleマップ「神戸市編」を参照してほしい。

阿彌陀寺

阿彌陀寺
阿彌陀寺の石垣に見られる割石
JR住吉駅すぐの阿彌陀寺。左手の石垣にAタイプ矢穴痕が残る割石が一石転用されている。

北向地蔵尊

北向地蔵尊
北向地蔵尊に見られる矢穴痕
北向地蔵尊。中央の屋根が設けらた石像に古Aタイプの矢穴列痕がある(矢穴タイプから徳川大坂城の石材とは考えにくい)。

水道路地蔵尊


水道路地蔵尊にはその背面に古Aタイプの矢穴痕がある(矢穴タイプから徳川大坂城の石材とは考えにくい)。

阿弥陀寺

阿弥陀寺に残る境界石
徳川大坂城の石丁場で使われていた境界石。兵庫城近くの阿弥陀寺境内にあり「加藤肥後守石場これより南ひがし」と刻まれている。大坂城石丁場の境界石は、ここ神戸市と東大阪市尼崎市で確認できた。

兵庫県立舞子公園

舞子公園園銘石
舞子公園園銘石の刻印
兵庫県立舞子公園の園銘石に大名二家の刻印がある矢穴石が使われている。松江藩の堀尾家の「分銅紋」と、土佐藩山内家の「丸三葉柏紋」だ。令和2年(2020)、奈良文化財研究所の高田祐一氏がデジタル写真を使って凹凸を記録、3D化することで刻印の内容を明らかにした。石のサイズは縦約2.5m、横約3.5m、高さ約1m。「兵庫県立」と刻まれた文字の上に2つの刻印が列ぶ。城山刻印群にあったものと推定され、神戸新聞の記事によると、高田祐一氏の調査でこの地に運ばれる前は市立神戸商業高校(平成12年(2000)閉校)にあったことが判明したという。平成13年(2001)、石は舞子公園に移設された。

余談ながら、大坂城の話ではないが、すぐ近くの舞子丘陵にはかつて石丁場があり、その刻印から舞子丘陵の石は明石城に使用されたことが判明している。

このほか、報告書では六甲八幡神社の手水鉢に古Aタイプの矢穴痕が残るとあるが、社務所の協力を得て探すも残念ながら該当する手水鉢は無かった。

石を運んだ人物の墓

観音寺

観音寺にある横河重陳の墓碑
最後に神戸市から少し足を伸ばし、明石市の観音寺にある横河重陳の墓碑を訪ねた。姫路城主池田輝政に仕え船大将となった人物で、徳川大坂城築城の際、縦四間(8m)×横八間(16m)の巨石を備前犬嶋より運んだと伝わっている(明石市指定文化財)。

(文・写真=岡 泰行)

大坂城残念石Googleマップ「神戸市編」

参考文献:
『徳川大坂城東六甲採石場』(2008兵庫県教育委員会)

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